天窓を諦める電話
江島瑞季は、天窓の写真をスマートフォンに保存したまま、不動産会社へ電話をかけた。
候補は二部屋あった。一つは古い屋根裏部屋。斜めの天井に小さな天窓があり、ベッドから月が見える。もう一つは四角い窓が一枚だけの、ごく普通の一階だった。
瑞季は屋根裏部屋にほとんど決めていた。二十九歳になっても、少し物語のある部屋に住みたかった。友人に写真を見せると、皆が「瑞季らしい」と言った。その言葉も嬉しかった。
ところが契約前日、重要事項説明書に〈過去二年に二度の雨水侵入〉とあるのを見つけた。担当者は「修繕済みです」と言ったが、内見時、天窓の下の床だけ色が違っていた。
一階の部屋には物語がなかった。壁紙は薄いベージュ、窓の外は生垣、照明は丸い蛍光灯。雨が降っても、たぶん何も起きない。
瑞季は二枚の間取り図を机に置いた。天窓の部屋を選べば、夜空を見るたび自分の選択を好きになれるだろう。雨漏りするたび、その選択を嫌いにもなる。普通の部屋なら、誰にも話したくなる景色はない代わりに、天気予報で眠れなくなることもない。
電話がつながった。
「屋根裏のお部屋、取り下げます」
口にした瞬間、惜しさが喉まで上がった。担当者は理由を聞かず、もう一方の手続きを進めた。
瑞季は天窓の写真を削除しようとして、やめた。諦めたものまで嫌いになる必要はない。
引っ越しの日、一階の丸い照明を外し、自分で選んだ小さなランプをつけた。月は見えない。雨音も遠い。
屋根裏部屋の広告には、〈雨の日も趣のある時間を〉と書かれていた。瑞季はその一文を見て、雨漏りまで雰囲気に変えようとしていた自分に気づいた。普通の一階にも、上の住人の足音や虫や湿気はあるだろう。安全な正解ではなく、引き受けたい不便の種類を選ぶだけだった。
ランプの光は天井まで届かなかった。瑞季は暗い隅を見つめ、ここにも自分で物語を足す余地があると思った。
その夜、瑞季は天気予報を確認せず、段ボールの間で眠った。