始発前のパン

妻が亡くしてから、夫はパン屋の窯に火を入れなかった。

妻は夜明け前に店を開け、始発へ向かう人へ焼きたてを売った。

夫は会計と配達だけで、パンを焼いたことがない。

閉店の片づけをしていると、妻が育てていた弟子が来た。

「最後に一回だけ、窯を使わせてください」

二人で、妻の手帳どおりに丸いパンを焼いた。

最初の一個を棚へ置く。

湯気の向こうに妻が現れた。

「形が悪い」

弟子が泣き、夫は腹を立てた。

「最初に言うことがそれ?」

「最初のパンだから」

妻は、朝一番のパンから湯気が消えるまで店にいられた。

夫は、妻へ聞きたかった。

なぜ病気を隠したのか。

なぜ弟子を雇う話を勝手に進めたのか。

店を夫へ残すつもりだったのか。

「残したくなかった」

妻はあっさり言った。

「あなた、粉でくしゃみするもの」

弟子へ店を譲り、夫には配達だけ続けてもらう計画だった。

夫は、それを自分が追い出される話だと思い、最後まで反対した。

「夫婦の店だった」

「夫婦で始めた店。最後まで同じ役をする契約じゃない」

「死ぬ前に言え」

「言った。あなたが聞かなかった」

弟子は気まずそうに作業場へ逃げた。

夫は、妻が渡した事業計画書を読まず、机の引き出しへ入れたままにしていたことを思い出した。

湯気が薄くなる。

妻は弟子を呼んだ。

「このパン、私の配合?」

「はい」

「じゃあ二度と焼かなくていい」

弟子の顔がこわばる。

「失敗ですか」

「成功しすぎ。私がいなくても私のパンを焼くなら、あなたを雇った意味がない」

弟子は、自分の作りたいパンがあると打ち明けた。

地元の雑穀を使った、少し固いパン。

妻には試作を見せる前だった。

夫は反射的に、

「売れない」

と言いかけ、妻の視線で止まった。

「私は、何をすればいい」

夫が尋ねる。

妻は店の扉を指した。

「始発の人の顔を覚えてるでしょう。何が売れるかじゃなく、何を食べたいか聞いて」

最後の湯気が消えた。

妻はパンの匂いを一度吸い、

「焦げる前に前を見て」

と言って薄れた。

店は弟子へ譲った。

夫は週三日だけ会計に立ち、客へ新しいパンの感想を尋ねた。

雑穀パンは最初売れず、試食を出し、厚さを変え、少しずつ常連が付いた。

妻の丸いパンは、命日に一個だけ焼く。

供えるためではない。

失敗した形を皆でちぎり、今の店のパンと食べ比べるためだ。

始発前、窯から湯気が上がる。

妻はもう現れない。

店の扉を開けるのは、残された人が新しい朝を入れる仕事になった。