安否だけの避難訓練
夕映が職場の階段を下りている途中、地震速報が鳴った。揺れは短かったが、家族グループには母から十件以上のメッセージが届いている。
母 今どこ
母 位置情報送って
母 返事して
母 駅?会社?
夕映は「無事」とだけ送った。すぐに電話が来る。
「どうして場所を言わないの」
「避難中だから」
「家族には知らせるものでしょう」
母は以前、災害時のためと言って、家族全員の位置情報共有を設定した。その後、夕映が会社帰りに寄った書店も、友人の家も、病院も、母の質問の材料になった。安全確認の地図は、いつの間にか生活を囲う柵になっていた。
今、階段の踊り場には同僚が並んでいる。夕映は通話を切らず、ゆっくり言った。
「災害のときは、場所じゃなくて無事かどうかを送る」
「迎えに行けないじゃない」
「迎えが必要なら私から頼む。常時の位置共有はしない」
母の向こうで父が「無事ならいいだろ」と言った。母は「あなたは心配じゃないの」と返す。いつもの夫婦の言い合いへ夕映を巻き込む音がした。
夕映は会社の外へ出ると、弟と父を含む新しいグループを作った。名前は「安否だけ」。最初の投稿に三つの言葉を書く。
無事
助けが必要
連絡不能
夕映 災害時はこのどれかだけ送る
夕映 位置情報は必要なときだけ一時間共有
母を招待すると、しばらく参加通知が出なかった。夕映は待ちながら、家族グループ側の位置情報共有を停止する。地図上の青い点が消えた。
やがて母が「安否だけ」に入ってきた。
母 無事
たった二文字だった。夕映は親指のスタンプを送る。母がルールを理解したのか、仕方なく従っただけかは分からない。
それでも帰宅まで、母から「今どこ」は来なかった。弟も「無事」と送り、父は少し遅れて「助け不要」と書いた。言葉はそろっていなくても、全員の安全は分かった。地図を覗かなくても、家族はばらばらの場所で生きていられる。
夕映は駅のホームで、家に着いたら「無事」をもう一度送ろうと思った。自分から選んだ一報なら、柵ではなく橋にできる。