宿帳が聞いていた離婚計画
老舗旅館《水鏡庵》の親族会で、恒星は妻の透乃へ朱印を突きつけた。
「この旅館を俺へ譲れ。経営を立て直したのは俺だ。おまえは帳場に座っていただけだ」
隣には顧問会計士の綾女がいる。二人は肩が触れ合う距離で座り、透乃が浮気を疑ったことを「経営者への侮辱」と責め立てた。恒星は従業員へ、今日から透乃を《前女将》と呼べと命じ、祖母の写真まで帳場から外していた。綾女は旅館の印を自分の鞄へ入れ、すでに次期女将のつもりで座っている。
「綾女とは仕事だけの関係だ。離婚後にどうなるかは知らないがな」
恒星は勝ち誇り、譲渡契約の録音を始めた。この宿では高齢の客との契約トラブルを防ぐため、管理者鍵を持つ者の会話が宿帳端末へ自動保存される。導入したのは恒星だった。従業員が自分を批判していないか監視するためである。
「署名する前に、管理者の直近記録を確認します」
透乃が言うと、恒星は自分で端末へ鍵を差した。
昨夜の帳場が映った。端末が保存を知らせたのは、恒星が今朝、透乃の権限を削除しようとしたからだ。共同所有者の権限変更には、直前二十四時間の管理者記録を双方へ提示する規則になっていた。誰もいないと思った二人が、帳簿の上で口づけを交わしている。
『旅館を取ったら、あの女は従業員寮へ追い出す』
『離婚前に名義を変えれば、財産分与を減らせるわね』
『宿の金で買った指輪も、出張経費にしておいた。透乃は数字に弱いから気づかない』
綾女の指には、その指輪が光っていた。恒星は慌てて鍵を抜く。だが画面には、彼が記録を三度削除しようとした履歴と、会計士である綾女が虚偽の科目へ振り替えた電子署名まで残った。
親族たちの視線が二人から離れていく。
透乃は譲渡契約へ署名せず、祖母から受け継いだ旅館印を自分の前へ戻した。恒星には経営権がない。彼が持っていたのは、透乃が任せた管理者鍵だけだった。
戸口で待機していた弁護士が、裁判所の封筒を開く。恒星の顔から血の気が引いた。
「恒星および綾女に対する役員解任、宿舎退去ならびに敷地への接近禁止仮命令を読み上げます」