小さな靴の影

 仁美の真上の部屋では、毎晩十一時を過ぎてから小さな足音がする。

 とん、とん、とん。

 少し止まり、また、とん、とん。

 子どもがいるらしい。仕事から帰って静かに過ごしたい仁美には、その規則のない音が苦手だった。天井を見上げ、管理会社へ連絡する文面を何度も考えたが、送らないまま午前零時になった。

 今夜は雨だった。

 雨粒がベランダのひさしを細かく打ち、室外機が低く回っている。部屋の中では足音が続く。仁美はイヤホンを探す代わりに、窓を少し開けた。

 雨音のほうが足音を隠すかもしれないと思った。

 ベランダへ出ると、仕切り板の下から隣の明かりが細く漏れていた。隣室の端には、黄色い小さな長靴が一足置かれている。昼間には気づかなかった。ひさしの照明を受け、床に短い影を二つ並べていた。

 風が吹く。

 片方の長靴が少し傾く。

 とん、と上の部屋で足音。

 傾いた長靴は倒れず、また元へ戻る。

 上から大人の低い声が聞こえた。言葉は分からない。足音が二度、三度と近づき、そのあと水道の流れる音になった。寝る前の歯磨きかもしれない、と仁美は思った。

 だから許せる、というほど単純ではなかった。疲れた夜には、明日も音がするのかと考えるだけで肩が固くなる。

 それでも音の向こうに、終わらせようとしている夜があることは分かった。

 やがて、とん、とん、が一度だけして止まった。

 雨はひさしを打ち続ける。隣の長靴の影も動かない。

 仁美は部屋へ戻り、管理会社へ送る予定だった文章を削除しなかった。下書きのまま保存する。必要になれば明日読めばいい。

 上の部屋で水道が止まり、何か丸い玩具が床を短く転がった。すぐ大人の足音が追い、音を拾い上げるように消える。仁美は天井を見上げなかった。静かにしてほしい気持ちも、向こうの夜が片づくのを待つ気持ちも、どちらも持ったままでよかった。

 ベッド脇には耳栓を置いた。ただし今夜はまだ使わず、雨音のほうを聞くことにした。

 天井は静かだった。完全な静けさではなく、誰かがようやく眠ったあとの静けさだった。