山椒がほどく夜
稲見徹平は、取引先から届いたメールを削除できずにいた。
契約日を先月末にしてほしい。処理上の都合だから、御社にも迷惑はかからない――文面は丁寧だった。売上目標まであと一件。その一件が取れれば、チーム全体の未達を免れ、徹平自身も次の等級へ届く可能性があった。上司からは「長い付き合いなんだから、分かるよな」と言われ、修正版の契約書まで添付された。
徹平は確認に時間がかかっているふりをして残業し、誰もいなくなるまで返事を延ばした。
会社近くの居酒屋も、客は徹平一人だった。店主に鶏ももの山椒焼きを頼んだ。
皮目が鉄板へ触れ、脂のはぜる鋭い音が続く。焼けた鶏の匂いに、粉山椒の青く乾いた香りが重なった。切り分けられた肉から白い湯気が立ち、皮は薄く張っている。
一切れ噛むと、まず脂の甘さが広がり、そのあと舌の端がじわりとしびれた。
「すぐには来ないんですね」
徹平が言うと、店主は山椒の小瓶を置いた。
「あとから分かる味です」
スマートフォンの画面には、上司から「先方待ってるぞ」と追加の通知が来ていた。
今夜、曖昧な了承を返せば、数字は達成できる。上司も取引先も笑い、月曜の会議では徹平が拍手を受けるかもしれない。来月になれば誰も覚えていないかもしれない。だが、あとから分かるものが数字だけとは限らない。
徹平は取引先のメールを削除せず、会社の規程に書かれた相談窓口の番号を個人メモへ写した。明日の朝、修正版の契約書とメールを持って相談する。上司には、そのあとで「日付変更には応じられません」と伝える。
契約を失えば、目標未達になる。上司との関係も悪くなる。相談した自分の名前が、本当に守られる保証もない。同僚から、融通の利かない営業だと思われるかもしれない。それでも、数字のために日付を動かした記憶は、自分の中からは消せない。
それでも、しびれてから舌をなかったことにはできない。
最後の鶏肉を飲み込むと、皮の香ばしさは消え、山椒だけが唇の内側で細く続いた。水を飲んでも、その感覚はしばらくほどけなかった。