左右ちがいの上履き
転校して一か月、少女は毎朝、腹が痛いと言った。
病院では異常なし。
母は「慣れれば平気」と励まし、少女は平気な顔で学校へ行った。
保健室の先生が、上履きへ貼る翻訳シールをくれた。
夜、左右を揃えて置くと、その日、足が本当は行きたかった場所を一か所ずつ話すという。
最初の夜。
右の上履きが言った。
「保健室」
左は、
「昇降口」
少女は笑った。
一日中、教室から逃げたかったらしい。
次の日。
右は「図書室」。
左は「校門」。
三日目、初めて違う場所が出た。
「音楽室」
右の上履きが言った。
左は相変わらず「昇降口」。
少女は昼休み、音楽室へ行ってみた。
扉の外で合唱部が練習している。
入りたいわけではない。
ただ、前の学校で歌っていた曲が聞こえた。
中から一人の生徒が出てきた。
「見学?」
少女は逃げようとしたが、足が動かなかった。
「聞いてただけ」
「じゃあ、廊下で聞いてていいよ」
次の日から、少女は音楽室の前で昼食を食べた。
誰とも話さない日もあった。
やがて譜面を運ぶのを手伝い、名前を覚えられた。
夜の上履きは、
右「音楽室」
左「保健室」
と答えた。
行きたい場所ができても、逃げたい場所がなくなるわけではなかった。
母は、翻訳シールのことを知らない。
毎朝、
「今日は大丈夫?」
と尋ねる。
少女は「平気」と答えるのをやめた。
「一時間目は怖い。昼は少し楽しみ」
母は困った顔をした。
一つの答えで安心できなくなったからだ。
それでも、
「じゃあ、一時間目をどうするか考えよう」
と言った。
学校と相談し、朝だけ保健室へ寄る日を作った。
遅れて教室へ入る。
合唱部には正式に入らず、時々練習を聞く。
決めきらないまま通った。
半年後、翻訳シールは剥がれた。
上履きはもう話さない。
進級初日、少女は新しい教室の前で立ち止まった。
右足は保健室へ行きたがり、左足は音楽室へ向きたがる気がした。
少女はどちらにも行かず、まず教室へ一歩入った。
無理だと思ったら戻るつもりだった。
足の気持ちは、必ず従う命令ではない。
聞いたうえで、今日はどこまで行くか自分で決めるための言葉だった。