左手の指輪

名越彰人は、祖母の遺品をネットオークションへ出す役を任された。二十九歳。古い衣類や食器の中に、黒ずんだ銀の指輪が一本あった。

祖母の宝石箱には値札の代わりに注意書きが入っている。

《家の指輪を、左手の薬指にはめてはいけない》

指輪の内側には名越家の男の名前と日付が刻まれていた。日付は結婚ではなく、全員が失踪した日と一致する。祖母は生前、「あれは家から出たがる男を、家と結婚させるもの」と話していた。

古い婚姻届の控えでは、配偶者欄が人名ではなく家屋番号になっている。指輪をはめた男の転出届は受理されず、代わりに畳、柱、箪笥として固定資産台帳へ記載された。祖父の名は今も二階西側の柱に残っていた。

彰人は半年前に婚約を解消したばかりで、結婚という言葉自体を避けていた。出品には号数が必要だが、計測器がない。自分の左手がちょうど平均的なサイズだった。

写真を撮る間だけと考え、一度だけ薬指へはめた。

指輪は根元まで滑り、冷たく締まった。薬指の皮膚に家の間取りのような細い線が浮かび、指を曲げるたび二階の床板が軋んだ。彰人が息を止めると、家中の時計も同時に止まった。外そうとすると、スマートフォンのカレンダーへ百三十二件の「結婚記念日」が追加された。最初は明治二十七年、最後は今日。すべて相手欄が《名越家》だった。

石鹸も糸も通じず、病院へ行こうと玄関を出た。スマートロックは《同居人の許可が必要です》と表示して開かない。窓の外には道路ではなく、祖母の家の廊下がどこまでも続いていた。

マッチングアプリから違反通知が届いた。

《既婚者による利用を確認しました》

《配偶者:名越家》

プロフィール写真を見ると、彰人の肩へ白い腕が回っている。顔は写らず、袖だけが古い花嫁衣装だった。

その直後、スマートスピーカーが明るく告げた。

『奥様が玄関に到着しました』

ドアの向こうから祖母の声がした。

「彰人さん、お帰りはもうありませんよ」

スマートロックの家族設定で、彰人の続柄が《夫》から《家具》へ変わった。