帰りの予約を取り消して
特急の発車まで、あと十一分だった。
八坂亜弥は改札前で、坂元周から紙袋を受け取った。中には、二人で食べきれなかった焼き菓子が入っている。片道二時間の距離を会いに来ても、亜弥は必ず最終より二本早い列車を予約した。食事が長引きそうなら先に会計を頼み、雨で運休の可能性が出れば、予定そのものを取りやめた。
「今日も帰る?」
「帰りは決めてるから」
周は来週から一年、海外研修へ行く。今夜が出発前に会える最後の日だった。彼は駅前のホテルを一室押さえていたが、亜弥が断ればキャンセルすると言った。
「予約したって聞くと、逃げたくなる?」
「勝手に決められるのが嫌なだけ」
「じゃあ、亜弥が決めて」
発車案内に、亜弥の乗る列車が表示された。
以前、恋人の転勤先へ移ったことがある。仕事を辞め、家を引き払い、帰りの切符を持たずに新幹線へ乗った。半年後に別れを告げられたとき、亜弥には泊まる場所も収入もなかった。相手の機嫌一つで帰る場所が消える恐怖を知ってから、どんなデートにも終了時刻をつけた。自分で買った切符が、心を守る避難口だった。周が優しくても、その切符を見せるまでは肩の力を抜けなかった。会うたび、楽しい時間より時計を見る回数のほうが増えた。
「帰りは決めてるの」
「うん。だから止めない」
周はホテルの予約画面を見せ、キャンセルのボタンへ指を置いた。引き止められないことに安心し、同時に寂しくなる。亜弥は、自分が欲しかったのは逃げ道であって、逃げることではないと初めて気づいた。
改札の向こうで発車ベルが鳴る。
亜弥は自分の特急券を開き、払い戻しを選んだ。次にホテル予約サイトを開き、周の取った部屋ではなく、同じ建物の別室を自分のカードで予約する。帰る場所も、泊まる場所も、自分で決められる。
「帰りは決めてる。でも、今日は帰らない」
特急がホームを離れた。亜弥は改札へ背を向け、周と並んで駅前へ歩き出した。紙袋の焼き菓子は、明日の朝に半分ずつ食べることにした。