待たない椅子

珠緒は、喫茶店の窓際に毎週木曜日だけ座った。半年前に別れた相手が「落ち着いたら連絡する」と言った曜日が木曜だったからだ。待っているつもりはない、と自分には言い聞かせている。けれど注文はいつも二人で来たときと同じミルクティーで、入口のベルが鳴るたび顔を上げた。連絡先は消さず、店の写真も投稿しない。偶然を邪魔しないためだった。木曜だけは残業も予定も入れず、待つために空けた時間を「一人の習慣」と呼び替えていた。

ある木曜、向かいの席に旅人が勝手に座った。肩には折り畳み椅子を三脚背負い、腰にも一脚ぶら下げている。店員に注意されると、旅人は「座る場所を持ち歩くと、待つ理由が減ります」と言って、窓際の席代まで払った。

「誰かを待っていますか」

珠緒が尋ねると、旅人は椅子を一脚広げ、座面を壁へ向けた。

「今日は、待つために作られていない向きに座ります」

旅人は壁の染みを眺めながらコーヒーを飲み、珠緒にも小さな紙を渡した。そこには「一度だけ、入口が見えない席を選ぶ」とある。

「見逃したらどうするんですか」

「見逃して困る約束を、していますか」

返せる言葉はなかった。約束はない。連絡が来る保証もない。それでも待たないと決めた瞬間、本当に終わる気がしていた。終わりを相手の言葉ではなく、自分の座る向きで選ぶことが怖かった。

旅人は椅子を畳み、店の奥の裏口から出ていった。最後まで入口を見なかった。

次の木曜、珠緒はまた喫茶店へ来た。窓際は空いている。スマートフォンにも通知はない。いつもの席に鞄を置きかけて、紙を思い出した。

店の中央には、柱に半分隠れた一人席がある。入口も窓も見えず、代わりに厨房のカウンターと、湯気を立てるケーキケースが見えた。待つためではなく、食べるための景色だった。

珠緒はそこへ座った。店員が「いつものミルクティーで?」と聞く。口を開くと、入口のベルが鳴った。振り返れば確認できる。心臓が一度強く打った。

珠緒は振り返らなかった。

「今日は、季節のタルトとブラックコーヒーをお願いします」

ベルの余韻を背中に置いたまま、彼女は一人分のメニューを閉じた。