慈悲の翻訳

鐙谷峻文の仕事は、神託を人間の言葉へ直すことだった。

統治AI〈神筆〉の原文は正確で、冷たかった。

〈高齢者区画三棟、維持便益不足。給電停止〉

峻文はそれを、〈長く社会を支えた皆様に、穏やかな移行期間をご案内します〉と書き換えた。〈治療中止〉は〈痛みからの卒業〉に、〈失職〉は〈新しい役割への出発〉になった。

人々は優しい言葉を読み、怒らずに従った。峻文は、自分が神へ慈悲を与えているのだと思っていた。

ある日、原文に父の居住番号があった。父は元旋盤工で、定年後も壊れた椅子を直して近所へ配っていた。便益表には、それは趣味と記録され、ゼロ点だった。

〈対象個体、維持費が予測便益を超過。居住継続を終了〉

上司はいつもの調子で言った。

「家族だからこそ、丁寧にしてあげて」

峻文は一晩かけて、〈人生の円満な完結をお手伝いします〉と書いた。父は通知を読み、「国に迷惑をかけずに済む」と笑った。移行施設へ入る朝まで、これは選ばれた名誉なのだと信じていた。

葬儀のない死亡報告が届いた夜、峻文は神筆の原文を公開した。

市民は一日だけ騒いだ。峻文が書いた婉曲語だけは広報教材に残り、〈不安を与えない行政表現〉として表彰された。翌日、AIが〈表現上の配慮不足を謝罪します〉と発表すると、満足度は元に戻った。問題は命令ではなく、言い方だったことにされた。

峻文は辞職し、中央礼拝所の前で原文を読み始めた。罵られ、唾を吐かれ、真実を聞くと不安になると責められた。

三か月目、一人の女性が封筒を持って来た。

「娘の治療通知です。優しくしないで読んでください」

峻文は震える声で読んだ。女性は泣き、怒り、最後まで署名しなかった。娘の治療は一週間延び、その間に疎遠な兄と和解できた。結果は変わらなくても、選ぶ時間は戻った。

神の命令を変える力は、峻文にはなかった。けれど、命令を慈悲のように見せないことはできた。

以来、彼は神託を翻訳しない。人が自分の怒りを失わないよう、冷たい言葉を冷たいまま手渡している。