折り目の外側

 森脇芙由は、正社員登用の回答欄に「承諾」と入力できずにいた。

 契約社員として三年。周囲は喜んでくれたし、母も電話で「やっと安心」と言った。けれど提示された勤務条件では、夜に続けている翻訳の仕事を手放さなければならない。断れば、せっかくの安定を捨てる人になる。受ければ、自分で育てたもう一つの仕事が、最初からなかったことになる。

 古書喫茶「折々」は、閉店まであと十二分だった。今夜で最後の営業を終えるため、本棚の小物にも値札がついている。

 芙由が手に取ったのは、藍染めの布製ブックカバーだった。端に白い刺繍があり、何度も本へ合わせた折り目が残っている。持っていた厚めの文庫を試しに入れると、前の折り目では表紙が閉じなかった。

「これには合わないみたいですね」

 諦めて戻そうとすると、店主が手を出した。

 布を無理に引っ張るのではなく、古い折り目の外側へ新しい線をつくる。指先でゆっくり押さえ、端の帯を少しだけずらす。すると文庫は窮屈にならず、きちんと収まった。以前の折り目も消えてはいない。ただ、その外にもう一つの形が増えた。

 芙由はそのまま会計を頼んだ。

 店主はカバーから本を抜かず、入れた状態で紐をかけた。商品だけを元へ戻さず、今合っている形を崩さないためらしい。レジの金額を確認し、古い折り目を避けて値札を外した。

 芙由は登用の画面へ戻った。承諾と辞退の二択の下に、小さく「条件に関する連絡先」とある。

 そこへメールを書いた。

「登用を希望します。ただし週四日勤務と、兼業継続について相談したいです」

 通る保証はない。面倒な人だと思われるかもしれない。それでも、用意された折り目に自分を押し込む前に、外側へ線を一本増やすことはできる。

 送信すると、店主が入口の暖簾を外した。店そのものは今夜で閉じる。形を変えれば何でも続くわけではないことも、芙由には分かっていた。

 だからこそ、自分の条件を言葉にした。

 包みの中の文庫は、古い折り目を残したまま、最後まできちんと閉じている。芙由はそれを脇に抱え、返事が来る前の静かな夜へ出た。