折り返さない列車
終点へ着いた終電は、もう客を乗せて折り返さない。
恵麻は座席に残り、全員が降りるまで待った。急いで出口へ向かう理由がなかった。ドアの上では「回送」の赤い文字が点き、空調の音が少しずつ弱くなっている。
今日、退職届を出した。
引き止められなかったことに安堵し、同じくらい傷ついた。上司は書類の日付を確かめ、「分かりました」と言った。五年働いた時間が、二分の面談で閉じた。
車内の照明が一列ずつ消える。白、白、暗闇。遠くの車両から、清掃員が座席を確認する音が近づいてきた。窓の外では、床洗浄機の丸いブラシが回り、濡れたホームへ鈍い輪を描いている。
恵麻は立ち上がった。
最後の客になったからといって、特別なことはない。清掃員は「お忘れ物にお気をつけください」といつもの声で言い、恵麻が降りると車内へ入った。ドアの内側で、手すりを布が滑る音がした。
ホームの端には、運転士が立っていた。前照灯を落とした車両を一度振り返り、無線へ短く応答する。それから先頭へ戻っていく。列車は客を降ろしたあとも、車庫まで走る仕事が残っている。
恵麻はベンチへ座り、退職後にしたいことを考えようとした。旅行、勉強、転職活動。どれも今夜の頭には大きすぎた。
床洗浄機がまた近づく。ぶうん、と回り、遠ざかる。同じ場所を少しずつきれいにしながら、何度も往復する。清掃員は柱の陰に残った雨水だけ速度を落として吸い取り、終わると機械の向きを静かに変えた。
改札の時計は零時を過ぎている。今日という日が終わっても、駅の仕事も、恵麻の息も、そこで急に途切れるわけではなかった。
退職は折り返しではない。元の席へ戻る列車もない。だからといって、次の行先を今夜表示しなくてもいい。
駅員が閉鎖の案内を始めた。恵麻は立ち、改札へ向かった。背後で回送列車のドアが閉まり、低いモーター音が立ち上がる。客のいない車両が、暗い線路の先へゆっくり動いた。
恵麻はその赤い尾灯を、見えなくなるまで追わなかった。自分の出口へ歩く。予定のない明日が怖くても、今夜の帰り道くらいは一人で選べると思った。