教室Aの空席

香月未央の退職届は、語学学校の受付机の引き出しに入っていた。

昼と夜に分かれた勤務、休日にも届く講師からの連絡。空いた三時間は休憩とされるのに、帰宅できるほど長くはなく、給与が出るほど短くもない。友人との夕食も資格の勉強も、その隙間には入らなかった。今日の企業向け日本語講座を終えたら、校長へ渡すつもりだった。

開始十五分前、担当講師から発熱の連絡が入った。校長は、隣の教室Bで行う上級クラスへ、初級クラスの受講者を合流させるよう指示した。

「一時間だけなら座って聞けるでしょう」

未央は出席表を見た。初級クラスには、聴覚障害のある受講者が一人いる。教室Aには字幕表示用のモニターと、要約筆記者の接続機器が準備されていた。教室Bにはない。合流すれば、その人だけ授業から外れる。

未央は販売説明会を担当する予定だった日本語教師へ連絡し、説明会を録画配信へ切り替えられないか尋ねた。教材を初級用に差し替え、要約筆記者へ講師変更を伝える。校長は「新規客を逃す」と止めた。

「今日すでに契約している人を、空席にしない方を選びます」

未央は教室Aの扉を開けた。授業は定刻に始まり、モニターには教師の言葉が少し遅れて表示された。新しい講師が話す速度を上げかけるたび、未央は廊下から合図を送った。

終了後、受講者は「内容が全部分かったのは初めてです」と受付へメモを残した。代講した教師は、字幕を前提にすると説明も整理される、と次回の教材修正を申し出た。

校長は未央の退職届を引き出しから見つけていた。

「辞める前に、希望をもう一度聞かせて」

未央は、週四日、勤務時間外の連絡なし、アクセシビリティ対応を正式業務にする、という三項目を差し出した。口約束なら退職届を出すつもりだった。

校長はその場で勤務条件変更書へ署名した。

未央も署名し、退職届を封筒から抜いた。破らず、日付だけを消して、引き出しの奥へ戻す。

残ることも、自分で条件を選べるなら、退職の反対ではなかった。