新しい簪の古い傷

 矢筈祈里は、町の共同浴場で番台をしている。

 常連の老婦人は、湯上がりに必ず鼈甲色の簪で髪をまとめた。亡くなった姉から譲られたものだという。

 ある夜、その簪が見つからなくなった。

 脱衣籠、洗面台、浴槽の縁。

 祈里も一緒に探したが、どこにもない。

「古いものだから、そろそろ休みたかったのよ」

 老婦人は笑った。けれど帰り際、髪を輪ゴムで結ぶ手が何度も止まった。

 翌日、祈里は古道具店を回った。

 よく似た簪を一つ見つけた。色も長さも近いが、金具が新しく、艶が強い。

 祈里は布で何度も磨き、持ち手へ細い傷を一本つけた。

 浴場の排水溝の近くへ置き、「見つかりました」と老婦人へ渡した。

「こんなところに」

「清掃のとき、奥から出てきました」

 老婦人は簪を光へかざした。

 金具を一度開き、祈里の顔を見る。

「よかった」

 それだけ言った。

 一週間後、老婦人が小さな茶筒を持ってきた。

「拾ってくれた人へ」

「仕事ですから」

「新しい傷をつけるのも?」

 祈里は言葉を失った。

「姉の簪は、金具が少し緩かったの」

 老婦人は穏やかに笑った。

「でも、同じものだと思うことにした。あなたもそうしたかったんでしょう」

「すみません」

「謝らないで。なくした夜より、今の方が髪を結びやすい」

 二人はそのことを秘密にした。

 ほかの常連に訊かれれば、「排水溝から出てきた」と答える。

 老婦人は毎回、新しい簪を昔と同じ手つきで挿した。

 茶筒の中には焙じ茶が入っていた。

 閉店後、祈里は湯を沸かし、老婦人と番台の前で一杯ずつ飲んだ。

 炒った葉の香りが、石鹸と湯気の残る脱衣所へ広がる。

「古い簪は、どこへ行ったんでしょう」

 祈里が訊く。

「姉が持っていったのかもね」

「それも優しい嘘?」

「秘密」

 老婦人は新しい金具を軽く鳴らした。

 夜の浴場には、誰もいない湯船の水音が響いた。

 新しい簪の古い傷は、失ったものの代わりにはならない。

 けれど二人だけがその違いを知り、知らないふりをすることで、湯上がりの髪はまたいつもの形へ戻った。