旅館の非常階段
竹生がいないことに気づいたのは、恋バナで順番が一周してからだった。
布団は膨らんでいる。けれど中身は予備の座布団だった。
同室の三人で廊下へ出ようとした瞬間、見回りの先生に見つかった。事情を話すと、先生の顔色が変わった。手分けして探し、非常階段の踊り場で竹生を見つけた。
彼女は携帯を耳に当て、泣きながら小声で笑っていた。
弟は旅行初日に検査入院した。竹生は欠席しようとしたが、「鹿の写真を百枚撮ってこい」と弟に追い出されたのだという。昼間の彼女は誰より元気に走り、写真も百枚を越えていた。元気にしていれば心配させないと、笑顔まで枚数に数えているようだった。
「うん。ちゃんと食べた。鹿も見た。写真、明日送る」
電話の向こうにいるのは、入院中の弟だった。
先生が近づくと、竹生は慌てて通話を切った。
「彼氏です」
誰も聞いていないのに言った。
「夜の恋バナで盛り上がって、声を聞きたくなって」
先生は携帯の画面を見た。通話相手の表示は「弟・病室」だった。それでも訂正させず、非常階段の扉を少し閉めて風を避けた。
「あと二分だけ。その彼氏に、姉が無断外出で怒られたと伝えなさい」
竹生は唇をかみ、もう一度電話をかけた。
私たちは先生と一緒に廊下で待った。懐中電灯の光が床へ落ち、四人分の影を長く伸ばした。
部屋へ戻ると、竹生は座布団を布団から追い出し、何事もなかったように横になった。
「恋バナの続き、する?」
私が聞く。
竹生はしばらく天井を見ていた。
「好きな人って、家族でもいいのかな」
誰も笑わなかった。
それから私たちは、弟の好きな食べ物、退院したら行きたい場所、今日撮った一番くだらない写真について話した。恋の話ではなくなったけれど、誰かを大切に思う話ではあった。
翌朝、先生は点呼のあと、竹生へ小さな土産袋を渡した。中には、旅館の売店で一番人気の鹿のキーホルダーが入っていた。
「彼氏に」
竹生は泣かずに笑い、今度だけは訂正した。
「弟です」