暗証番号を聞かない人
銀行の夜間窓口で、紀平宗平は「あなたの同僚と話している」という女性の電話を受けた。
女性の携帯には別の通話がつながったままになっていた。相手は銀行の安全担当を名乗り、画面共有の操作を指示している。女性は確認のため、固定電話から宗平の窓口へかけたのだ。
「送られてきた数字を、どちらにも読まないでください」
女性は今まさにワンタイムパスワードを伝えるところだった。
宗平は本人確認を進めつつ、口座の動きを確認した。高額の振込先が新しく登録され、送金処理は確定直前。通常の問い合わせなら、相手の説明を聞き切ってから担当へ回す。だが数分の保留が、不正送金を成立させる。
宗平はオンライン取引を一時停止し、振込先登録を無効にした。女性には、もう一方の電話を切り、画面共有のアプリを閉じるよう案内した。暗証番号もワンタイムパスワードも聞かなかった。
「でも、あの人は私の残高を知っていました」
「見せる操作をしたからです。知っていたのではなく、今見たんです」
宗平は責めずに事実だけを並べた。女性が自分の失敗だと思って黙れば、次の被害確認が遅れる。どの画面を開いたか、どの操作をしたかを順に聞き、カードや口座番号の扱いを専門部署へつないだ。
宗平は、女性の携帯に表示された相手の番号を読み上げさせるより、正規窓口からかけ直せる連絡先を登録した。偽の番号を追うのは専門部署の仕事で、今は口座を守るのが先だ。画面共有を切った時刻と、振込先が追加された時刻を並べ、被害確認に必要な順序を崩さなかった。
処理は送金の二十秒前に止まった。
女性は泣きながら、「本物の銀行員は何を聞くんですか」と尋ねた。
「必要なことだけです。少なくとも、今の数字は聞きません」
通話後、宗平は最初の案内文を修正した。「銀行を名乗る相手と通話中」という一言を、緊急項目に加えた。
午前六時、通常窓口が開く。待ち回線が一斉に増えた。
次の客は、暗証番号を忘れたと言った。
宗平は番号そのものを聞かず、再設定の道を案内した。