最後の暗証番号

午前零時ちょうど、月岡啓介に国枝白花から電話が来た。

「古いスマホの暗証番号、覚えてる?」

二人が同棲していた頃の端末だ。白花は深夜営業のリサイクル店にいて、引き渡しまであと十分。初期化する前に、母親の最後の留守番電話だけ取り出したいという。

「四桁?」

「六桁。あと一回間違えたら全部消える」

啓介は記憶をたどった。誕生日も記念日も試したらしい。

「一一〇七二九」

「何の日?」

「十一月七日、二十九歳までにって意味」

二人で、二十九歳までには結婚しようと話した日だった。白花が入力すると、ロックが外れた。

「母の音声、あった。ありがとう」

そのまま終わるはずが、白花が息をのんだ。

「動画がある。〈十一月七日に見せる〉って」

「消して」

「啓介が指輪を持ってる」

啓介は目を閉じた。別れる一週間前に撮った、練習用のプロポーズ動画だった。結局見せなかった。

「私が海外へ行くから、やめたの?」

「机に退職願があった。何も言わず町を出ると思った」

「退職願は、あなたの転勤についていくためだった」

啓介は、当時の辞令が白紙になったことを伝えられなかった。会社から内示撤回を口止めされ、正式発表を待つうち、白花は〈結婚する気がないなら終わりにしよう〉と言った。彼は、海外を選んだ彼女を引き止める権利はないと思い、頷いた。

「どうして聞かなかったんだろうね」

「怖かったからだろ。違う答えが返るのが」

零時七分。白花は明朝、本当に海外へ発つ。別れたあとに応募し直した仕事だった。

「動画、持っていっていい?」

「母さんの音声だけ残して、初期化して」

「見られたくない?」

「見てほしかった時期は、もう終わった」

端末の向こうで、データを移す進捗音が鳴る。九分後、白花が〈消去〉を選ぶ前に、啓介のクラウドへ同じ動画が復元された。昔の自動同期が、ロック解除をきっかけに動いたのだ。

「こっちにも戻ってきた」と彼が言う。

「じゃあ、一緒に消そう」

二人で三つ数えた。零時十分、啓介は動画を選択し、〈最近削除した項目からも消去〉を押した。