最後の箸

砂川篤哉は、給食センターの衛生監査で廃校を訪れた。二十七歳。調理室は十年前に閉鎖されたのに、配膳台には湯気の立つ一人分の給食が置かれていた。

献立保存簿の表紙裏に、栄養士の字で一行がある。

《配膳台に一本だけ残った箸を、取ってはいけない》

地域では昔、飢饉の年に学校へ来られなかった子の分を「欠け膳」として残し、箸を一本だけ添えた。二本揃えると、その席に生者が座らされるという聞き書きも挟まれていた。

篤哉は写真を撮り、食品が本物か確かめた。カレーは温かく、牛乳の賞味期限は二十年前。箸は一本だけだった。

検査には試食用の器具が必要だが、鞄へ入れ忘れている。篤哉は一度だけ、その一本を取り、具材を少量すくった。

箸を持った瞬間、反対側からもう一本が伸び、見えない手と一膳になった。配膳台の椅子が引かれ、篤哉の身体は座る姿勢のまま動かなくなる。向かいの空席では、誰かが彼と同じ速度でカレーを食べていた。

皿が空になると身体は動いた。監査用の温度ロガーには、食事中だけ室内人数が二十九名と記録されていた。閉校時の最後の学級も二十九人だったが、卒業写真は二十八人しかいない。ログの備考欄には《一膳成立》とあり、篤哉が席を立った時刻に一人分の体温が調理室から彼のスマートフォンへ移動していた。帰路、空腹なのにコンビニの自動ドアは彼を商品搬入口へ案内した。

篤哉は箸を置かず、床へ落として逃げた。翌日、監視カメラには彼の隣で、輪郭のない児童が給食着を着ている映像が残っていた。

帰宅後、食器棚には見覚えのない給食用のアルミ皿が一枚増えていた。洗ってもカレーの匂いが消えず、皿の底には篤哉の出席番号が刻まれていた。

夜、普段使う食事管理アプリが通知した。

《本日の摂取人数:2名》

《砂川篤哉さんの一人分を、欠食者へ譲渡しました》

その後、何を食べてもアプリの摂取量は零のままだった。

母からメッセージが届く。

「篤哉、今夜は帰る? 玄関に給食袋を持った子がいるの。あなたから借りた箸を、毎日一本ずつ返すって」