未登録語のコーラス
藍沢コトの歌声ライブラリは、死んだ本人が嫌った名前を最後に歌った。
母の百瀬芙美は、娘の声を再現した追悼コーラスを試聴していた。曲の末尾に譜面のない四拍があり、合成声がそこだけ不自然に低くなる。
「クウ、こっちへ」
歌詞画面には何もない。しかも「クウ」という幼名は辞書へ登録されていなかった。
コトが十二歳を過ぎたころから、芙美がその名で呼ぶと激しく嫌がった。
「その名前で呼ばないで」
反抗期だと思った。再婚相手の江見橋俊だけは、昔からかわいがっている証拠だと言って、何度も「クウ」と呼んだ。
コトが家を出た夜、俊は迎えに行ったと話した。翌朝、川でコトの靴が見つかり、遺体は一週間後に下流へ上がった。事故として処理された。芙美は、娘が俊を避けて食事の時間をずらしていたことも、袖の下に青い痣を隠していたことも見ていた。それでも家庭を壊す方が怖く、「仲よくしなさい」と言った。幼名を嫌う理由を尋ねたことは一度もなかった。
試聴室の技術者が音素の出所を調べる。画面では、娘の声なら青く表示されるはずの音片が、最後の四拍だけ赤く点滅していた。最後の声は、コトのライブラリから作られていない。音片の時刻は、収録終了後ではなく、娘が帰宅したとされた時刻より前を指していた。最終収録日のルームマイクに入った男声を、コーラス生成ソフトが誤って娘の音域へ変換していた。
原音を戻す。
ドアが開く。俊の足音。怯えたコトの呼吸。そのあと、男が小さく言う。
――クウ、こっちへ。
コトはマイクから離れながら答える。
「その名前で呼ばないで」
声の向きと時刻から、俊が収録後のコトを連れ出したことが分かる。彼が迎えに行ったという時刻より、三時間も早い。
芙美は初めて、娘の言葉を反抗ではなく証言として聞いた。技術者が原音を保全し、試聴室の外にいた刑事を呼ぶ。
「その名前で呼ばないで」
最後に同じ言葉が流れた時、それは幼名を嫌う少女の照れではなかった。
自分を支配する男を、声だけで指し示す拒絶だった。