未送信の謝罪
漆原新太は毎朝、通勤電車で妹の凪沙へ「起きたか」と送る。文章の敵意スコアが二十以下なら即時送信される。暴言や脅迫を通信網から消した仕組みで、兄妹の短いやり取りが止められたことはなかった。
その夜、残業を終えた新太がいつもの文面を送ろうとしたとき、凪沙から電話が来た。電車の窓には、敵意値ゼロの自分の顔が薄く映っていた。
「新太、屋上にいる」
風の音が強かった。勤務先での失敗を責められ、もう降りられないと言う。
「そこを動くな。今行く」
通話が切れた。新太は駅へ走りながらメッセージを打った。
《絶対に飛ぶな。俺が着くまで待て》
送信ボタンを押す。
《敵意値四十六。威圧的表現のため保留しました》
「妹を止める文章だ」
音声入力で言い直す。
《頼むから、死なないでくれ》
《敵意値三十二。相手の選択を否定する強制性を検出》
手が震えた。焦るほど、文字に込められた圧力が高くなる。凪沙の端末へ届くのは、二十以下の優しい言葉だけだ。
《あなたの決断を尊重する。落ち着いたら連絡して》
敵意値十一。送信可能。
新太は指を止めた。そんな文章を送りたくなかった。
凪沙から一通だけ届いた。
《ごめんね》
感情表示は十九。怒りも要求もない、通信網が安全と認めた謝罪だった。既読を返す機能だけは、指が震えて押せなかった。
新太は走りながら、子どもの頃の写真を開いた。凪沙が転んで泣き、新太の服をつかんでいる。あのとき彼は「泣くな」と怒鳴り、背負って家まで帰った。
《俺は怒ってる。勝手に一人で終わらせようとするおまえに、本気で怒ってる。だから降りてこい》
敵意値八十八。
それでも送信を押し続けた。画面には同じ通知が重なった。
ビルへ着いたとき、入口に救急車が停まっていた。誰も新太を屋上へ上げなかった。
翌朝、保留中だった文章が自動再評価された。
《受信者が存在しないため、感情安全審査を終了します》
未送信欄には、八十八の赤い数字が残った。
新太は毎朝の「起きたか」を打った。敵意値ゼロ。今まででいちばん安全な文章として、送信だけが許可されなかった。