松脂の白い跡

笹森更紗は、実家の押入れでヴァイオリンケースを開いた。転職のため部屋を空けることになり、楽器は売るつもりだった。査定申込書まで印刷していたが、留め金を外す音を聞くと、その紙を裏返した。弓の毛には、白い松脂の粉が薄く残っている。指で触れると、音のない休符のように舞った。

弦楽部最後の合奏は、卒業式の一週間前だった。曲は三分ほどの小品で、三年間、演奏会のたびに弾いてきた。最後くらい完璧に終えようと、皆は放課後の音楽室に集まった。

二十小節目で、突然、校舎の電気が落ちた。

暖房も譜面台の灯りも消え、窓の外の残雪だけが青く見えた。誰かが弓を止め、椅子がきしんだ。非常灯の緑だけが譜面台の脚を照らし、弦を押さえる指先から急に温度が逃げた。復旧を待てばよかったのに、チェロが暗闇で次の音を出した。

一人、また一人と加わった。譜面は見えない。更紗は何度も弾いたはずの旋律を、隣の呼吸で思い出した。

最後の四小節には、全員が一拍休む箇所がある。演奏会では、その休符が怖かった。音が途切れた瞬間に、次の入りを間違える気がした。

暗い音楽室で、休符が来た。

誰も指揮を見られない。更紗は弓を浮かせ、隣の肩が息を吸う気配を待った。四人分の呼吸が、同じところで膨らんだ。

次の一音は少しずれた。音程も揃わなかった。それでも曲は最後まで進み、弓を下ろしたあと、誰もすぐに話さなかった。窓から入る光の中で、松脂の粉だけがゆっくり落ちていた。

その春、更紗は楽器を置いた。音楽を仕事にする友人たちと比べ、続ける資格がないと思ったからだ。

今、ケースの中には、退職後に申し込んだ市民楽団の案内が入っている。練習初日を前に、断りの連絡を書きかけていた。

更紗は弓へ松脂を塗った。ざらりとした手応えが指へ伝わる。古い弦を一本鳴らすと、乾いた音が部屋の壁へぶつかった。

上手ではない。あの日の最後の和音にも似ていない。

それでも、休んだあとに入る場所は残っていた。

更紗は案内をケースの蓋から取り出し、練習会場へ向かう鞄に入れた。