歌う壁のレコード店
グエンが劇場で働いていた頃、舞台は壊れて当然だった。
幕が裂け、床板が割れ、歌姫が終演後に「今夜中に直して」と言う。黒い制服の膝は擦り切れ、工具袋より先に彼の睡眠が底をついた。
劇場を辞めたあと、旧音楽街で小さなレコード店を譲り受けた。店の壁は薄く、隣の演奏が響くたび漆喰が落ちた。
ところが夜、棚の蓄音機が一斉に古い曲を奏でると、音の波がひびへ入り込んだ。低音が床を押し戻し、高音が窓の亀裂を縫い、朝には壁まで新品のようになる。
客は試聴室へ硬貨を入れ、好きな曲を一曲聴く。その利用料と作曲家への分配は店が自動で行い、グエンには管理料だけが届いた。
《試聴料、入金。今月の必要額を確保》
直後、劇場支配人から耳障りな呼び出し音が鳴る。
『今夜の公演前に回り舞台が故障した。お前しか構造を知らない。すぐ来い』
「図面を残しました」
『読む時間がない』
「私は眠る時間を十年、失いました」
『倍額を払う』
グエンは店の中央に立ち、音のない瞬間を聞いた。昔は静寂が怖かった。静かな時間は、次の故障を待つ時間だったからだ。
「金ではなく、今夜を持っています。売りません」
通話を終えると、棚から一枚の盤が落ちた。床へ細い傷がつく。壁が低く歌い、傷はゆっくり消えた。
昼下がり、杖を持った客が試聴室へ入り、古い子守歌を選んだ。壁はその旋律に合わせて細かな傷を塞ぎ、棚の傾きまで直していく。客は曲が終わっても急いで立たず、「静かな余韻も料金に入っていますか」と笑った。会計機は追加料金なしと表示する。劇場では幕が下りた瞬間から撤収が始まり、余韻など邪魔だった。この店は、音が消えたあとまで客へ渡している。グエンはそれを働かずに見届けた。
グエンは本日の試聴設定を自動運転へ切り替え、店の奥の椅子へ深く座る。蓄音機の針を上げ、売上通知も消音にした。
窓の外で正午の鐘が鳴ったが、店内の誰も立ち上がらなかった。
店が自分を直す歌さえ止め、彼は何も演奏されない午後を、最後の音まで味わった。