正面を変えた椅子
神楽坂みつきは、杯ではなく椅子を引きずった。
三人分の席を離れ、壁際の司会台まで運ぶ。そして仮面の女のすぐ隣、透明な水杯の正面へ腰を下ろした。
《鐘が鳴った時、自分の正面にある杯を飲め。毒を避けた者が通過する》
「席を戻しなさい」
司会者の声が硬くなる。
「杯には触ってないわ」
元軍人と棋士は動かなかった。二人は、赤と青と黒のどれが毒かを睨み続けている。椅子を動かすなど、逃亡と同じに見えたのだろう。
みつきは司会者の透明な杯へ手を伸ばす。
司会台の床だけに擦り傷がなかった。毎回、進行役は同じ場所から動かず、安全な杯をそこへ置いている。彼女は椅子を運びながら、その痕跡まで確かめていた。
判定灯は点かない。
鐘が鳴った。
彼女は水を飲み干した。元軍人は赤、棋士は青を選ぶ。黒は空席の正面に残った。赤を飲んだ男が、喉を押さえて卓へ倒れる。
『通過者、神楽坂みつき、稲置冬馬』
棋士の冬馬は青い杯を置き、目を細めた。
「規則は『最初の席』とも『指定席』とも言っていない。自分が座った場所の正面、か」
「そう。人は杯を動かせと言われると、杯しか見なくなる」
司会者は空になった自分の水杯を握りしめた。
「進行用の席はゲーム盤の外です」
「なら、床に線を引いておくべきだったわね」
みつきが椅子を動かしたのは、単なる言葉遊びではない。司会者の台だけ、毒霧を遮る透明板の内側にあった。どの杯が毒でも、進行役は自分の飲み物を安全圏へ置く。そこにある水は、必ず無害だ。
「あなたたちは参加者に『自分の場所を守れ』と思わせたい」
みつきは立ち上がった。「席を奪い合わせれば、本性を撮れるから。でも場所なんて、座り直せば変わる」
棋士の冬馬は、最後まで自分の椅子を動かさなかった。盤上では何手先も読める男が、盤の外へ出る一手だけは思いつかなかった。その表情に、みつきは勝ち誇るより先に寒気を覚えた。
扉が開く。
彼女は椅子を司会者の正面に残したまま歩き出した。
司会者の前には、飲み物を失った空白と、参加者の椅子だけが残る。
空いた勝者席に座る者は、もう誰もいなかった。