母には見せない頁

「その箱、何が入ってるの」

母が勝手に蓋へ手をかけたとき、叶芽は反射的に押さえた。

実家を出る前夜だった。箱の中には、高校時代に日南と回した交換日記がある。

日南の母親は、娘の鞄も携帯も日記も確認する人だった。進路希望には赤字で訂正を入れ、友達を家柄で選んだ。

だから二人の交換日記は、表紙を英語の問題集に偽装した。見られて困る頁には、教科書の索引を真似た暗号を使った。

〈P一八、右から三語目〉は、「逃げたい」。

〈P四二、下から二行目〉は、「味方でいて」。

三年の冬、日南は東京の専門学校へ行きたいと書いた。母親には地元の大学を受けると言っているらしかった。

叶芽は日記で応援したが、卒業式の日、日南は現れなかった。母親が願書を破り、親戚の家へ連れていったと後から聞いた。

最後に返された頁には、暗号ではなく普通の文字があった。

〈見られないようにするだけじゃ、私の人生は始まらない。次は口で言う〉

日南はその春、家を出た。何年か遠回りして、今は舞台衣装を縫う仕事をしている。叶芽とは時々、写真を送り合う。彼女が縫った華やかな服を見るたび、あの秘密の頁を思う。

一方の叶芽は、母に逆らうほどの理由はないと思い続けた。就職先も、交際相手も、部屋の家具も、「そちらのほうが安心」という母の言葉を受け入れた。断るたび母が傷つく顔をするので、叶芽は自分が我慢するほうが穏やかだと覚えた。明日ようやく、一人で選んだ町へ引っ越す。

母の指が、箱の縁で止まっている。

「昔のものなら、整理してあげる」

叶芽は蓋を閉めた。

「これは読まないで」

声は震えたが、暗号ではなかった。

母は不満そうに手を離した。

玄関へ運ぶ箱は重い。それでも叶芽は誰にも持たせなかった。

日南の頁を隠すためではない。自分のものを自分で運ぶためだ。

ドアを出る直前、母が何か言いかけた。

叶芽は振り返り、「行ってきます」とだけ告げた。

それはもう決して、許可を求める言葉にはしなかった。