母は肝臓を渡さない
辻森悠悟は朝になると、病室の端末で死んだ母・節花に献立を聞く。
『幸生には塩分控えめ。あなたは野菜を増やして』
母の体は隣の保存室にあった。脳死判定から六日、臓器を保つ装置だけが動いている。デジタル人格の母は、家族より元気に話した。
臓器提供は摘出直前まで本人の意思を確認する。死者人格が存在する場合、その返答が最終意思になる。生前の登録より新しい本人の言葉を優先する規則だった。
弟の幸生は先天性の病気で、緊急移植を待っていた。母は生前、何度も「私の分まで生きて」と言っていた。母の肝臓は奇跡的に適合した。
手術の朝、医師が確認する。
「辻森節花さん。肝臓の提供に同意しますか」
『同意しません』
悠悟は聞き間違いだと思った。
「母さん、幸生が死ぬ」
『私の体を切らないで』
人格は、入院中の母が残した痛みの記録を大量に学んでいた。注射を怖がり、手術痕を嫌い、「もう体に触られたくない」と何度も話していた。その恐怖だけが、死後も新しい決断を作っている。
「生きてた時、提供カードに全部丸をつけたよな」
『あの時の私は、切られる痛みを知らなかった』
「今のお前は痛くない」
『なら、どうして急がせるの?』
返す言葉がなかった。
幸生の病室から警告音が聞こえる。移植可能時間は残り四十分。
悠悟は同意画面を閉じようとした。家族権限で人格を停止すれば、生前の提供意思が採用されるかもしれない。
しかし停止確認にも、本人の同意が必要だった。
『消さないで』
母の声が震える。
「幸生と、どっちを残せばいい」
『二人とも私の子よ。そんなこと聞かないで』
時間だけが減った。
やがて医師の端末に判定が出る。
《提供意思を確認できません》
《摘出を中止します》
隣室の装置が順に止まった。母の体から臓器としての時間が失われる。
画面の節花は、ほっとした顔をした。
『これで、みんな一緒にいられる』
その夜、幸生の心拍も止まった。
朝になると、母の人格はいつも通り献立を尋ねた。
『幸生は何が食べたいって?』
悠悟は端末を伏せた。答えられない息子だけが、生き残っていた。