水槽の底の合鍵

 鷺沢凛久にとって、惣一は七年間だけ父だった。母と再婚し、離婚し、それからもしばらく誕生日に連絡をくれた。母が嫌がり、凛久が返事を減らし、やがて途切れた。

 十年ぶりの連絡は、「水槽を畳む。ギンを引き取れないか」だった。

 惣一の部屋には、老いた銀色の鮒が一匹いた。子どもの凛久が祭りですくい、三日で死ぬと言われた魚だ。

「まだ生きてたんだ」

「お前より聞き分けがいい」

「餌やるときしか返事しないけど」

「十分だ」

 二人は床へ新聞を敷き、ポンプで水を抜いた。途中でホースが詰まり、惣一が息を吹き込もうとしたので、凛久が取り上げてブラシを通した。

「歳を考えろよ」

「魚よりは若い」

「比較対象がおかしい」

 凛久が魚をバケツへ移し、惣一が濾過器を洗う。昔と役割が逆だった。小学生の頃は、凛久がホースを外して床を水浸しにし、惣一が雑巾を投げた。

「引っ越すの」

「階段がきつくなった」

「母さんには」

「言う必要ない」

 その一言に、凛久は口を閉じた。母が悪いとも、惣一が正しいとも思えない。どちらかを選ばされる年齢ではなくなったのに、胸の奥ではまだ十五歳のままだった。

 砂利をすくうと、底から真鍮色の鍵が出た。青いプラスチックの札に、凛久の名前が油性ペンで書かれている。

「これ、なくしたやつ」

「ポケットに入れたまま水槽いじったんだろ」

「何で捨てなかったの」

「鍵は勝手に捨てると困る」

「もう、その家ないだろ」と言いかけてやめた。惣一も何も足さなかった。

 水槽を洗い終え、ギンを小さな移動容器へ移した。惣一は新居の住所を書いた紙と、銀色の新しい鍵をバケツの持ち手へテープで留めた。

「これは」

「水換え。俺の腰じゃ無理だ」

「業者を呼べよ」

「魚は業者の顔を覚えない」

 凛久は古い鍵だけ返そうとした。惣一は受け取らず、濡れた新聞を畳んでいる。

 結局、凛久は古い鍵と新しい鍵を同じ輪に通した。用途のなくなった青い札は外さなかった。