注文しなかった皿
雛森詠太は、取り壊し前の洋食店「金の匙」で一夜を過ごすことになった。
祖父母の店を継がず、都会で料理人になった詠太に、管理会社から備品確認を頼まれたのだ。
厨房の鍋を数えていると、客席からベルが鳴った。
出てみると、亡くなった幼なじみの真帆が、白いエプロンで立っていた。
「ご注文は?」
「そっちが店員?」
「今夜だけ」
真帆は十七歳で亡くなった。
この店の常連で、毎週オムライスを注文した。
詠太が祖父から習って初めて作ったオムライスも、真帆が食べた。
「同じの」
「だめ。今夜は、生きてるあいだ一度も注文しなかったものしか出せません」
真帆は勝手に厨房へ入り、しばらくして皿を運んできた。
レバニラ。
詠太は顔をしかめた。
「嫌いなんだけど」
「だから頼まなかった」
「死人の接客、強引すぎない?」
一口食べると、祖父の味だった。
濃すぎる醤油、焦げたもやし。
真帆は向かいで頬杖をついた。
次は冷やし中華。
その次は甘すぎるココア。
どれも詠太が子どもの頃、祖父母に勧められて断ったものだった。
「こんな夜中に何皿食べさせる気」
「頼まなかった分、全部」
「二十年分ある」
「朝まで頑張って」
詠太は笑った。
祖父が倒れたとき、店を継いでほしいと言われた。
詠太は、有名店で働く自分に古い町の洋食屋は似合わないと断った。
祖父は何も言わず、翌年店を閉めた。
真帆の葬式にも、詠太は仕事を理由に帰らなかった。
「私のときも、注文しなかったね」
真帆が言う。
「何を」
「会いたいって」
詠太はフォークを置いた。
真帆は入院中、何度も短いメッセージを送った。
《忙しい?》
《新しい店、どう?》
詠太は返信したが、会いに行くとは書かなかった。
弱っていく姿を見るのが怖かった。
「最後に何が食べたかった」
「それを聞くの、遅い」
「今夜なら作る」
「注文したら出せないよ」
真帆は笑い、厨房を指した。
「自分で作れば?」
詠太は立った。
祖父のフライパンを火にかけ、卵を割った。
真帆が一度も頼まなかった料理を考える。
オムライスしか思いつかなかった。
「それ、毎週頼んだ」
「今度は俺が、食べてほしいから作る」
形は崩れた。
真帆は一口だけ食べ、「昔より下手」と言った。
皿には、その一口分だけが本当に欠けていた。
夜明け前、真帆はエプロンを外した。
「ごちそうさま」
店から消えたのは、それだけだった。
詠太は取り壊しの契約を止めた。
有名店は辞めなかったが、休日だけ祖父母の店を開けることにした。
新しいメニューの最初には、こう書いた。
《注文しなかった皿――店主が勝手に選びます》