消えた咳
安西多津は、十八秒より長く黙っていられなかった。
胸の奥から乾いた咳がせり上がる。介護施設の入所者へ過量の睡眠薬を与えた容疑で、彼女は一度、自白している。録音には、はっきりとした声で「私が薬を入れました」と残っていた。
鷲尾葉月警部補は再生を止めた。
「この供述を確認します。同じ内容で間違いありませんか」
「その声は、私です。でも、その文は話していません」
「録音があります」
「咳を数えてください」
葉月は冒頭から聞き直した。十二秒、十七秒、十四秒、二十一秒。安西は短い間隔で咳き込む。ところが自白部分だけ、四十七秒間、咳も息継ぎもない。室内の空調音まで薄くなっていた。
「編集されたと言うの?」
「『私が薬を入れましたかと聞かれた』。私はそう言った。前と後を切られたんです」
監視室の御園管理官から内線が入る。
「老女の演技だ。医師も意思疎通可能と書いている。確認を取れ」
「意思疎通と、編集の有無は別です」
「事件を潰す気か」
安西は咳の合間に笑った。
「私がやったかもしれないと思ってる顔ですね」
「薬品庫に、あなたの指紋があった」
「毎日触る棚です」
「投薬記録も書き換えられていた」
「だから、偽物の自白まで本物にしていい?」
葉月は返せなかった。安西が無実かどうかは、まだ分からない。だが、音声が加工されていれば、真相へ近づくどころか捜査そのものが毒になる。
原音ファイルの管理情報を開く。登録時刻の一分前に、御園の端末で音声編集ソフトが起動していた。提出ファイルのチェックサムは、録音機が自動送信した値と一致しない。サーバーの一時領域には、削除前の断片が残っていた。
再生すると、安西の声が続く。
――私が薬を入れましたかと聞かれたので、違うと答えました。
その直後に激しい咳。
葉月は一時領域の原音を保全し、加工版と並べて証拠番号を振った。御園から『直ちに削除』と命令が届く。
葉月は咳の波形が途切れた四十七秒を赤枠で囲み、監察宛ての送信欄に原音を添付した。