消えた避難字幕
午後九時の報道番組で、避難所の字幕だけが画面から消えた。
放送局の送出技術、伏見野つぐみは、副調整室のモニターを見て立ち上がった。地震速報の赤帯は出ている。時刻も震度も表示される。だがアナウンサーが読み上げる避難所名は、画面下に一文字も出ない。
ディレクターは「テロップ担当、打ち直せ」と叫んだ。担当者は同じ原稿を再送したが、送出画面には空白の帯だけが重なる。
つぐみは原稿の中身ではなく、レンダーキューを見た。地名の短い字幕は通り、長い避難所名だけが失敗している。夕方に更新した自治体名用フォントが、旧字を含むと処理を止めていた。キューの先頭にある一件が詰まり、その後の字幕も待たされている。
「再送を止めて。空白が増えるだけ」
彼女は障害原稿をキューから隔離し、ホットスタンバイの字幕機へ切り替えた。だが予備機は通常番組用で、赤帯との重なり位置が違う。切り替えれば避難所名は出る一方、震度表示を隠す恐れがあった。
つぐみは予備機の位置を一段上げ、最初の一枚を局内モニターだけに出した。震度と避難所名が同時に読めることを確認してから、本線へ送る。
七秒後、「北野総合体育館」の文字が画面に現れた。つぐみは読めたことだけで終わらせず、テレビの端が切れる古い受像機でも全文が入る位置か確認した。非常時の情報は、最新の画面だけに届けばよいものではない。アナウンサーは何事もなかったように同じ名前をもう一度読んだ。視聴者にとって必要なのは、局内で誰が失敗したかではなく、どこへ逃げるかだ。
つぐみは復旧後も元の字幕機へ戻さなかった。旧字を含む地名が他にもある。番組中に修正を試せば、次の情報まで消える。朝まで予備機を本線にし、更新は放送後に検証すると決めた。
放送が落ち着くと、ディレクターが息を吐いた。「たった一文字で止まるのか」
「一文字だから止まるんです。人は読めても、機械は例外を読めません」
その直後、速報チャイムが再び鳴った。今度は津波注意報だった。
つぐみは椅子へ戻り、海沿いの地名一覧を開いた。消えてよい字幕など、一枚もなかった。