消去開始、午前二時
午前一時五十八分、乙部道哉の携帯へ地下二階の夜警から電話が来た。
『冷却室が、甘い匂いです』
リチウム電池の電解液が漏れた匂いだった。二分後、データセンターは火に包まれる。道哉が消火ガスを起動すると、画面は暗転し、また一時五十八分へ戻った。
机上には、角の欠けた黒いUSB。中には弟が生前に残した音声人格の認証情報がある。弟の会話記録と、希少疾患の創薬データは同じ演算区画に保存されていた。
道哉は、演算区画のバックアップを百パーセントにしてから消火し、完了表示のまま二時を越えようとした。
転送速度を最大にした回では、負荷で蓄電池が過熱し、夜警が逃げ遅れた。
一部の顧客データを切り捨てても、九十九パーセントで配線が溶けた。
別の回では、弟の人格だけUSBへ移そうとした。
スピーカーから、弟の声を模したプログラムが言った。
『兄ちゃん、また俺を優先するの?』
その言葉は、弟が入院中に最後に残したものと同じだった。道哉は治験への参加を断り、当時まだ不確かな人格保存へ貯金を使った。弟を未来に残すつもりで、治療の可能性を一つ捨てた。
夜警の電話が繰り返す。
『冷却室が、甘い匂いです』
道哉はようやく条件の誤りを見た。データを守りながら火を消すことはできない。バックアップ装置そのものが熱源だ。必要なのは完了ではなく、演算をゼロにすることだった。
次の周回、道哉は全顧客領域の緊急消去を選んだ。創薬データも、企業の台帳も、弟の声も対象に含まれる。
〈復元不能です〉
黒いUSBを認証口へ挿す。
「知ってる」
消去率が上がるほど電力負荷は下がった。夜警へ避難経路を伝え、二時ちょうどに消火ガスを放つ。火は冷却室の扉一枚で止まった。
時間は戻らない。
最後の一パーセントで、弟の声が途切れ途切れに聞こえた。
『今度は、ちゃんと先へ――』
ゼロになった。
道哉は空のUSBを抜き、障害報告書の損失欄へ「全件」と入力した。朝になれば会社も研究計画も終わる。それでも夜警は地上から無事を知らせている。
甘い匂いの消えた部屋で、道哉は弟の声を思い出そうとした。機械の声ではない本物のほうが、もう少しずつ曖昧になっていた。