温泉宿の忘れ物
榊森夕紗のもとへ、温泉宿から小包が届いた。
中には、夫・岩戸谷臣吾の家紋入りのカフスと、小夜川美怜の髪留めが入っていた。宿泊者名は偽名だったが、予約電話の番号は臣吾の社用携帯だった。
夕紗が二人を家へ呼ぶと、美怜は髪留めを見ても笑った。
「似た品ならいくらでもあります。奥様、寂しいから物語を作ってるんですね」
臣吾も、取引先との会合で宿を使っただけだと言った。
夕紗は小包の下から、宿の正式な回答書を出した。
部屋の電子鍵は二枚。大浴場の利用記録、夕食時の写真、館内廊下の映像。二人は三か月で七回、同じ離れへ宿泊していた。夕食のアレルギー申告にも、二人の直筆署名がそろっていた。しかも代金は、臣吾が勤める家族会社の接待費として処理されている。
「会社の記録を勝手に調べたのか」
「調べたのは監査役です」
襖が開き、臣吾の父である会長と、会社の顧問弁護士が入ってきた。その日は祖父の法要で、親族全員が隣室に集まっていた。
会長は不正精算の一覧を机へ置いた。
「接待相手欄に、亡くなった取引先社長の名まで使っている。父の法要の日に見せるには、十分な証拠だ」
美怜はただの同行者だと訴えたが、宿の予約音声には、二人が夕紗を嘲る声が残っていた。
『家紋の意味も分からない嫁だから、カフスがなくても気づかない』
親族の前で音声が止まる。
会社は臣吾と美怜を懲戒解雇し、接待費の返還と信用毀損の損害を請求。夕紗の弁護士も、不貞慰謝料の請求書を双方へ渡した。
会長は臣吾へ、家業の株式贈与を撤回し、今後一切援助しないと告げた。母親も、美怜との再婚を認めるつもりはないと席を立つ。
臣吾は夕紗へカフスを差し出した。
「これは家のものだ。返してくれ」
夕紗は首を振った。
「忘れ物として返す相手は、もう決まっています」
会長がカフスを受け取り、家紋の箱へ戻した。臣吾の名だけが後継者名簿から消される。
家紋入りの金具が箱の中で音を立てた瞬間、宿へ置き忘れた小物より先に、臣吾は会社と親族の席を失った。