湯上がりの足跡

家族が風呂を使い終えたあと、脱衣所に小さな濡れた足跡が現れるようになった。

裸足の子どもほどの大きさで、廊下を点々と進む。

拭いても、翌朝には消えている。

足跡は、その日、家の中で人知れず泣いた者の部屋まで続いた。

最初の夜は、母の寝室だった。

仕事の契約を切られたことを、家族へ言えずにいた。

二度目は父の書斎。

亡くなった飼い犬の首輪を見つけ、一人で泣いたらしい。

三度目は弟の部屋。

好きな子へ手紙を渡せなかったという、家族全員が少し笑ってしまう理由だった。

足跡を見つけた者は、部屋へ入る前に必ず茶を一杯いれることにした。

理由を聞かない。

話したければ話し、話したくなければ一緒に飲む。

家霊の足跡が、家族の呼び鈴になった。

ある日、姉の進学試験の結果が届いた。

第一志望は不合格。

姉は夕食で、

「滑り止めには受かったから大丈夫」

と明るく言った。

その夜、足跡はどの部屋にも向かわなかった。

姉は泣いていないのだと家族は思った。

翌朝、浴室の扉を開けると、小さな足跡が浴槽の縁で途切れていた。

姉は風呂の中で泣き、水と一緒に流したのだ。

家霊にも、行き先を見つけられなかったらしい。

母は新しい茶をいれず、姉ともう一度風呂へ入った。

狭い浴槽で膝をぶつけながら、

「悔しいね」

とだけ言った。

姉は初めて声を出して泣いた。

母も、仕事を失った日のことを話した。

失敗した者同士、湯が冷めるまで泣いた。

翌朝、足跡は浴室から姉の部屋まできちんと続いていた。

その途中に、もう一組、大人の足跡が重なっていた。

母のものではない。もっと小さく、家霊の足跡と同じ形だった。

家族はその家を出るまで、足跡を完全には止められなかった。

泣かない家族にはならなかったからだ。

ただ、誰かが浴室へ長くこもると、扉の外に茶を二杯置くようになった。

新しい家には不思議な足跡は出ない。

それでも廊下で家族の顔を見かけると、少し目元を見る。

濡れた道が現れる前に、隣へ歩けるかもしれないからだ。