湯気の向こうの衣装戸

紡木エナは公爵家の洗濯棟で、夜明けの色を知らなかった。

窓のない地下で湯を沸かし、百人分の衣装を洗い、染みが一つ残れば最初からやり直す。青い制服は薬剤で薄灰色になり、指先はいつも白く割れていた。暇を取った日にも未読の緊急連絡が並んだ。「舞踏会衣装が届かない」「奥様がお怒り」「代わりは使えない」。その代わりを育てなかったのは屋敷なのに。

エナの無限収納は、衣服を入れた時点の清潔さと形を保った。皺も虫食いもなく、季節が何度巡っても香りさえ変わらない。

彼女は町外れに《季節の衣装戸》を置いた。冬外套、礼服、子どもの晴れ着。持ち主は使わない服を預け、借り手が利用料を払うと、収納から一着だけ届く。料金の半分は持ち主へ、残りがエナへ自動で分けられる。洗濯は返却口に組み込んだ浄化石が行う。衣装戸の利用者は、礼服を借りる理由まで尋ねられない。祝いでも別れでも、服だけが静かに届く。

誰かが服を借りても、エナの指は濡れない。夜中に鐘も鳴らない。戸の横にある小箱だけが、ときどき軽く音を立てた。

《衣装利用料:入金》

《今月の湯代・食費・家賃を確保》

その日は、朝から雨だった。エナは湯船に湯を張り、薔薇塩を一匙落としたところで、元女中頭から通信を受けた。

「今夜の舞踏会に染みが見つかった。すぐ戻りなさい」

「戻りません」

「公爵夫人がお召しよ。復職すれば洗濯棟の副頭にしてあげる」

十二年働いて初めて出された昇進は、退職届より軽かった。副頭になれば鍵束が増え、眠る時間が減るだけだと、屋敷で見てきた。

「衣装戸の緊急洗浄口を使ってください。利用料は銅貨三枚です」

「元使用人が主人から金を取るの?」

「今は店主です。無料で私の夜を取られるほうが、おかしかったんです」

通信を切ると、エナは古い制服を無限収納へ入れなかった。小さく切り、床を一度だけ拭いて、布回収籠へ捨てた。

湯気が鏡を白く隠す。彼女は業務通知をすべて切り、肩まで湯へ沈んだ。雨音だけが、今日は誰の呼び鈴にも聞こえなかった。