火星行き、介護歴あり
端山澄郎は、火星移民船の操縦士候補だった。
訓練成績は首席。健康値も判断速度も申し分ない。ただ一つ、信用履歴に《非生産的拘束時間》が多かった。脳梗塞の後遺症がある父を、毎晩介助していたからだ。
選考AIは告げた。
《長期任務では地上関係への執着が判断を鈍らせます。介護を公的施設へ移管すれば、半年で適格点へ回復します》
父は「行け」と言った。火星の写真を枕元に貼り、介護ロボットの使い方も覚えた。
澄郎は施設移管に同意した。ところが訓練中、父からの通信が減った。ロボットの報告は毎日《異常なし》だったが、画面の父は笑わなくなった。
出発一か月前、澄郎は無断で施設へ行った。父は食堂の窓から、何もない壁を見ていた。
「火星はどっちだ」と父が尋ねた。
澄郎は方角を答えられなかった。自分が見ていたのは空ではなく、選考表の数字だけだったと気づいた。
彼は父を家へ連れ帰った。契約違反で信用点は急落し、搭乗資格を失った。移民船が打ち上がる日、二人は団地の屋上にいた。
父は震える手で双眼鏡を持ち、光の尾が雲へ消えるまで追った。
「悪かったな」と父が言った。
「何が」
「お前を地球に縛った」
澄郎は、父の肩に毛布を掛けた。
「ここも、まだ見終わってない」
火星へ行けなかった悔しさは消えなかった。仲間の通信を見る夜には、胸が焼けるほど羨ましかった。それでも彼は、その感情を点数回復プログラムで矯正しなかった。
父が亡くれたのは二年後だった。澄郎は再受験年齢を過ぎていた。
今は地上管制室で、火星から家族へ届く通信を担当している。孤独で判断を誤りかけた乗員には、規定より長く家族の声をつなぐ。そのたび評価は下がる。
けれど澄郎は知っている。人を遠くへ行かせるのは、地上との絆を切ることではない。帰りたい場所があるまま進めるようにすることだ。
父の介護で覚えた、返事を急がず呼吸を待つ癖が、遠い乗員を何度も救った。宇宙へ行けなかった時間も、無駄ではなかった。