灰の輪で点けた火
久我伊吹は電力会社の委託で、焼岳裏山の送電鉄塔を点検した。山火事跡のさらに奥に、木が一本も生えない円形の禁足地がある。旧集落の聞き書きには、火に関する禁忌だけが残っていた。
《灰の輪の内側では火をつけてはいけない》
伊吹は可燃性ガスか燻炭層を疑い、携帯測定器を持ち込んだ。数値は正常。灰は雨に濡れているのに、靴跡がつかなかった。円の外には焼けた表札が十二枚並び、どれも住所だけが伊吹の住む町へ書き換えられていた。
点検音声
14:22 鉄塔基部、異常なし
14:31 灰円中央、石標あり
14:33 照度不足。文字確認不能
ヘッドライトが故障した。伊吹は石標を読むため、ポケットのライターを一度だけ点けた。
小さな炎が、円の縁まで一瞬で走った。熱はない。灰の中から無数の家の間取りが赤く浮かび、玄関、廊下、台所、寝室へ火が分かれていった。各部屋には住人の名字と避難時刻が表示され、伊吹の部屋だけ時刻が空欄だった。空欄の横で、ライターの炎と同じ形のカーソルが点滅している。中央の石標には《次の火元》と刻まれていた。
伊吹は炎を消し、円の外へ逃げた。背後では、見えない家々の火災報知器が順番に鳴り、最後の一台だけが伊吹の部屋で使っている通知音だった。報告書には「照明不良により未確認」とだけ書いた。提出時刻の欄だけが、まだ来ていない火災発生時刻へ自動修正された。
帰宅後、部屋は冷えていた。ガスもブレーカーも切ったのに、焦げた畳の匂いがする。スマートホームのアプリに、知らない部屋が追加されていた。
ホーム名:灰の輪
登録された部屋:十二
火災センサー:すべて正常
間取り図のうち一室だけ、伊吹のワンルームと同じ形だった。中央で小さな炎のアイコンが点滅している。
削除を押すと確認文が出た。
《火元を削除すると、別の部屋へ移動します》
その瞬間、台所のIHコンロが自動で点いた。表示は「0」なのに、天板の下で灰色の指が何本も動いた。
スマートフォンが通知を読み上げた。
《点火を確認しました。灰の輪の内側です》
間取り図で伊吹の部屋が赤く染まり、玄関の外側に十一個の人型アイコンが並んだ。
《住人が避難してきます》