無音通報

壬生川航平警部補が見ていた一一〇番には、声が一つもなかった。

情報屋の箕輪咲希は聴覚障害者向け文字中継を使い、違法カジノの客名簿を県警へ売っていた。昨夜、彼女は緊急接続を開いたまま、四分間文字を打った。正式記録に残っているのは一行だけ。

《追われています。場所は分かりません》

受理員は位置情報を取得できず、回線は切断。咲希はその後行方不明になった。通信指令課は設備試験中の誤接続として処理し、記録を閉じようとしていた。

航平は端末の揮発キャッシュを復元した。画面には、正式記録から消えた文が灰色で残っていた。

《私の保護住所を知っていたのは警察だけ》

《匿名協力者名簿の写真を、制服の男が客に見せた》

《削除する人の番号は二〇一六》

最後の行の直後、監督者権限で三行が削除されている。職員番号二〇一六は、昨夜の指令監督官だった。削除操作は通話終了前に行われていた。

監督官は航平の横に立った。

「文字中継は本人確認が弱い。なりすましだ」

「削除理由が空欄です」

「差別的な妄想を記録から除いた。現場を守る判断だ」

航平は接続映像を開いた。文字中継では、利用者の手元だけが低解像度で保存される。咲希の指が震えながら入力している。画面端に、彼女の保護カードと同じ識別用の青い輪が見えた。なりすましではない。

「名簿の写真なんて存在しない」と監督官は言った。「お前がキャッシュを外へ出せば、障害者通信の秘密を漏らしたことになる。制度そのものが止まるぞ」

「だから消したんですか」

「一人を守るために、全員の窓口を閉じるな」

航平は迷った。秘匿通信を保全する行為が、別の利用者の信頼を傷つける可能性はある。だが、窓口の内側で住所を売り、訴えまで消すなら、すでに制度は閉じている。

彼は画面を紙へ出力した。音のない通報は、プリンターの駆動音だけを残して白紙の上へ現れた。

三行の削除前後へ自分の署名を入れ、監督官の職員番号を添えて、航平は緊急保全報告として送信した。