爪跡のあるベンチ
森下楓子は工具箱から短いプラスドライバーを選んだ。公園のベンチの右端がぐらついている。今朝、ジンがそこへ前脚をかけたとき、座板が小さく跳ねた。管理事務所へ連絡すれば済むことだったが、ねじ一本なら自分で締められる。
夕方、獣医はジンの肺の写真を見せ、「次の発作が来る前に」と静かに言った。処置は明朝。散歩は今夜までにしておくよう勧められた。
楓子はドライバーをコートのポケットへ入れた。公園まで百五十メートル。ジンは十四歳の大型犬で、今は後ろ脚に補助ベルトがいる。胴を持ち上げると、昔の半分ほどの重さしか感じなかった。
公園には小学生が二人残っていた。ベンチでゲームをしていたが、ジンを見ると場所を空けた。楓子は礼を言い、右端の板を持ち上げる。裏側のねじは赤く錆び、指で回るほど緩んでいた。
ジンはベンチの下へ鼻を入れた。そこには乾いた葉と、白いテニスボールが一つ転がっている。若いころなら咥えて離さなかったはずなのに、今は匂いを嗅いだだけで伏せた。
楓子はドライバーをねじへ当てた。右へ一回、二回。板が少しずつ固定される。三回目で手が滑り、金属が鳴った。小学生の一人が「犬、寝た?」と聞いた。
「休んでるだけ」
それ以上は説明しなかった。
ねじ山は潰れかけていた。楓子は角度を変え、体重をかける。ジンの呼吸が足元でゆっくり上下する。公園の時計が六時を告げ、子どもたちは走って帰った。
最後に座板を両手で揺らす。もう音はしない。楓子はベンチへ一度腰掛け、ジンの背へ靴先を触れた。
座板の表には、ジンが前脚をかけ続けてできた浅い傷が二本あった。楓子は削れた木くずを手のひらで払う。傷を埋める道具は持ってきていないし、埋める必要もない。ぐらつきだけ直れば、明日も誰かがここへ座れる。
白いボールはそのままベンチの下へ戻した。次に来る犬が見つけられるよう、葉だけを少しどけた。
立ち上がり、ドライバーをポケットへ戻す。右端のねじは、それ以上どちらにも回らなかった。