片耳の案内板

栗本果奈は、ホーム変更の放送を聞いて階段へ急いだ。途中で、灰色のコートの女性に腕を軽くたたかれる。差し出されたスマートフォンには、文字が大きく表示されていた。

《補聴器の電池が切れました。急行は何番線ですか》

「四番線です!」

果奈が大声で答えると、女性は眉を寄せ、また打った。

《声量ではなく、口元か文字でお願いします》

果奈は連絡を文章で送るのが苦手だ。電話なら十秒で済むことを、何度も打ち直す時間が惜しい。女性は、聞き間違える十秒のほうが惜しいらしい。

二人が四番線へ着くと、案内表示が消えていた。信号故障で、急行が三番線へ戻るという再放送が流れる。女性は果奈の口元を見たが、マスク越しでは読み取れない。果奈は外して話そうとし、女性は首を振って画面を指した。感染症が気になる人もいる。伝わればよいという果奈の近道が、相手にとっての近道とは限らなかった。

周囲でも聞き取れなかった人が行き先を尋ね合っていた。周囲でも聞き取れなかった人が行き先を尋ね合っていた。

果奈は女性の画面へ「三番線」と入力した。女性はうなずいたあと、鞄から白いスケッチブックと太いペンを出す。

《大きく書いてください》

「駅員じゃないのに?」

女性は肩をすくめた。果奈は紙いっぱいに「急行 三番線」と書いた。女性が右端を持ち、果奈が左端を持つ。果奈は声で「三番線です」と繰り返し、女性は紙を階段の方向へ向けた。

急いでいたはずの二人は、杖をついた客と子ども連れが移動するまでそこに残った。果奈が声を張るときは女性が紙を高くし、女性の腕が疲れると果奈が両手で持った。どちらか一方の方法だけでは、全員には届かなかった。最初の急行は出てしまった。

次の電車へ乗る前、女性はスケッチブックから一枚を切り離し、二つ折りにした。

《もらっていいですか》

果奈はうなずいた。正確な文字を好む理由までは分からない。女性も、果奈が声を出し続けた理由を聞かなかった。

一枚の案内を、二人で別々の方法で伝えた。それで十分だった。