犬が歩く帰り道

家族の誰も、兄がいたことを覚えていなかった。

妹だけも同じだった。

ただ、老犬が毎夕五時になると、玄関で鳴き、一本の古いリードをくわえた。

父は、

「昔からの癖だ」

と言う。

だが写真箱には、知らない若者の手だけが写った写真が何枚もあった。

犬を抱く腕。

妹の自転車を支える指。

顔の部分だけ、白く抜けている。

夕方、妹は犬にリードを付けた。

犬はいつもの散歩道を外れ、駅へ向かった。

人から忘れられた者の帰り道だけは、犬が毎日歩き直す。

駅前のバス停。

川沿いの工場。

古い団地。

老犬は一階の扉の前で座った。

中から男が出てきた。

犬は立ち上がる力もないはずなのに、尾を激しく振り、男の胸へ飛びついた。

「どうして、こいつが」

男は妹を見て、顔を固くした。

「誰」

妹が尋ねると、男は笑った。

「それ、本気で言ってる?」

男は兄だった。

家族と喧嘩し、家を出た翌朝から、誰の記憶にも残らなくなったという。

電話をしても他人扱いされ、実家へ行けば警察を呼ばれた。

犬だけが毎夕、団地まで歩いてきた。

「私にも兄がいたの?」

「お前の宿題、半分やった」

「字、違ったでしょう」

「だから先生にばれた」

妹は何も思い出せない。

それでも、男の笑い方が自分に似ていた。

家へ連れて帰ると、父母は警戒した。

老犬が男の膝から動かない。

男は家の傷や、母の料理の失敗や、父が隠している工具の場所を話した。

知っているだけでは、家族の証明にはならない。

盗み見た可能性もある。

母が味噌汁を出した。

男は一口飲み、

「また砂糖入れた?」

と言った。

母はいつも、入れていないと嘘をつく。

その癖を指摘された瞬間、箸を落とした。

記憶は戻らなかった。

それでも家族は、男を客として夕食へ招くことから始めた。

週に一度。

次は月に二度。

犬が歩けなくなると、妹が同じ道を迎えに行った。

兄と呼べるまで一年かかった。

呼んでも昔は戻らない。

兄の側にだけある思い出へ、妹は時々嫉妬した。

老犬が亡くした夕方、家族五人で団地への道を歩いた。

帰り道を覚えていた最後の一匹はいない。

それでも誰も迷わなかった。

犬が毎日踏み直した道を、今度は家族が一緒に覚えていたからだ。