犬の受け渡し、十九時
動物病院の待合室で、舟木涼介のスマートフォンが三度震えた。
表示された名前は、元妻の千晶。離婚後も二人は、老犬の胡桃を一週間交代で預かっている。今日は胡桃の検査結果を一緒に聞き、十九時に元妻へ引き渡す予定だった。
梶谷志麻は、涼介と付き合って半年になる。胡桃を撫でる時間は好きだったが、元妻からの連絡音だけは胸がざらついた。それでも好きとは言えない。言えば、元妻との連絡を減らしてほしいという願いまで付いて出そうだった。胡桃のために続く関係を、恋人の立場で切らせたくなかった。
志麻は元妻と比べられたことは一度もない。それでも胡桃の食事量、眠る癖、苦手な雷のことを、元夫婦だけが同じ速さで話す瞬間には入れなかった。十年分の暮らしに嫉妬していると認めれば、幼く見える気がした。大人らしく理解することと、平気でいることを混同していた。
受付終了まで八分。涼介が電話を切り、申し訳なさそうに言った。
「千晶、電車が止まって遅れるって」
「仕方ないね」
「一時間くらい」
「分かったよ」
志麻はリードを持ったまま立ち上がった。
「先に帰る?」
「うん。二人で待ってれば」
涼介が待合室の出口を塞ぐ形で立った。
「志麻、千晶から連絡が来ると、いつも帰るよね」
「犬のことでしょ。仕方ない」
「納得してる顔じゃない」
診察室の扉が閉まったまま、会話だけが続いた。胡桃だけが二人の間で尻尾を振る。
「嫌なの。元夫婦の予定に私が混ざるのが。でも嫌だって言ったら、胡桃か私か選ばせるみたいになる」
涼介はリードを握り直した。
「選ばない。胡桃の世話は続けるし、志麻が嫌だったことも聞く。どっちかを消せば解決する話にしたくない」
「面倒だよ」
「離婚しても残る責任はある。新しく始めたい気持ちもある。面倒なまま話すしかない」
受付の照明が消えた。志麻は帰宅用の電車時刻を閉じ、涼介の共有カレンダーを開いた。来月の検診予定には、まだ参加者がいない。
「仕方ない、じゃなくて。次も一緒に来る」
自分の名前を予定へ追加し、十九時の引き渡し通知も削除せずに残した。