猫のいない石垣

退職届を鞄に入れたまま、私は母校近くの細道へ曲がった。古い家の石垣は低くなり、上にいたはずの三毛猫はいない。苔のついた石へ掌を置くと、汀と分けた魚肉ソーセージの匂いを思い出した。

高校二年の冬、汀はほとんど教室へ来なくなった。それでも朝、この石垣には現れた。二人で猫に餌をやり、始業ベルの前に別れた。私は毎日「今日は学校へ行く?」と聞き、汀は曖昧に笑った。

ある朝、猫だけが待っていた。汀はそのまま退学した。石の隙間には、ノートを破った紙が挟まれていた。

〈ここに来る理由が猫だけになったから、別の場所を探します。あなたまで残らなくていい〉

私はその文を、見捨てられた証拠のように読んだ。もっと強く引き止めればよかった。学校へ連れていけばよかった。彼女が去ったあとも毎朝猫に餌をやり、卒業するまで石垣を離れられなかった。

社会人になってからも、辞める人を見るたび汀を思った。残ることが誠実で、去ることは誰かを捨てる行為だと決めつけた。だから心身を壊した職場でも、引き継ぎが終わらない、後輩が困る、と理由を増やしてきた。

石垣の上には、猫の代わりに小さな鉢植えが並んでいる。住人らしい女性が玄関から出てきて、「昔ここに猫がいましたよね」と言う。三毛猫は十年以上前、近所の家で最期まで飼われたらしい。

私は礼を言い、温かい石から手を離した。汀も、猫も、私が見守らなければ消える存在ではなかった。去った先で、それぞれの場所を得たかもしれない。

駅前の郵便ポストで、退職届を会社宛ての封筒へ入れる。投函口の前で少し迷い、それから手を放した。

石垣を離れることは、あの朝を忘れることではない。汀が残した「別の場所を探します」という言葉を、今度は自分のために受け取ることだ。

鉢植えの一つに、猫の足跡を描いた札が刺さっている。ここにいた時間は、誰かが去ったせいで無かったことにはならない。

ポストの中で封筒が落ちる音を聞き、私は猫のいない道を、初めて後ろめたさなく歩いた。