珈琲染みの同じ本
一ノ瀬藍が指定したのは、同じ題名の本ではなく、同じ一冊だった。
「背ラベルが九一三・六、登録番号の末尾が四二。借りられますか」
深町航平は青い製本テープを鋏で切りながら答えた。
「同じ本は、同じ本ではありません」
「番号まで同じなら同じです」
「状態が変わります」
藍は五年前、その小説を恋人の卓也と回し読みした。雨の喫茶店で、卓也がカップを倒し、百八十ページに薄い輪染みを作った。二人で平謝りして弁償を申し出たが、図書館は読めるからと受け取らなかった。
先月、卓也と別れた。部屋を片づけていたら、あの小説の貸出票が出てきた。思い出を処分する前に、染みがまだ残っているか確かめたくなった。
深町が端末を調べる。
「修理中です」
「染みのせいですか」
「背が外れたためです。染みは以前から記録されています」
「見せてもらえませんか」
「修理資料は貸し出せません」
青いテープが、机の上でまっすぐ伸びる。藍は食い下がろうとしてやめた。規則を曲げてもらいたいわけではない。自分でも、なぜ染みを見たいのか分からなかった。
「その本じゃなきゃ駄目な理由は?」と深町が聞いた。
「楽しかった証拠が残っている気がするから」
「染みが消えていたら?」
「たぶん、少し悲しいです」
「残っていたら?」
「それも、たぶん悲しい」
深町は無表情のまま、修理票に何かを書いた。
三日後、連絡が来た。修理が終わったという。藍が受け取った本の背には青い製本テープが貼られ、以前より頑丈になっていた。
百八十ページを開く。珈琲の輪は残っていた。けれど、その中心に小さな文字が印刷されていることに初めて気づいた。
“記憶は、戻る場所ではなく、通り過ぎた場所を照らす。”
五年前は卓也の咳払いに気を取られ、読んでいなかった一文だ。
返却の日、藍は深町に言った。
「同じ本なのに、違って読めました」
「同じ本は、同じ本ではありません」
深町は青いテープの端を指で確かめる。
「本が変わることもあります。読む人が変わることも」
藍は貸出票を捨てず、新しいしおりにした。過去へ戻るためではなく、その先を読むページを忘れないために。