現像液の向こう側
写真店「光庭」は、翌週から暗室を閉じることになっていた。フィルム現像の注文が月に十本もない。薬品の仕入れをやめれば、店は証明写真とプリントだけで細く続けられる――店長はそう計算した。
退職した松永絃生が給料の残りを受け取りに来た夜、排水ポンプが詰まった。水城が一人で暗室にこもり、床へあふれた水を雑巾で押さえていた。
「手伝ったら、残業つきます?」
「もう従業員じゃない人には、つかない」
それでも松永は靴を脱いだ。二人で現像機を持ち上げ、排水口の蓋を外した。細いフィルム片と埃が絡まり、黒い塊になっている。水城がピンセットで引き、松永が懐中電灯を照らした。
二年前、松永が撮影ミスを客のせいにしたとき、水城は皆の前で彼を叱った。それ以来、二人は暗室でも背中を向け合っていた。辞表を出した日、水城は受理印だけ押した。
詰まりを取ると、水が渦を巻いて引いた。床を拭き終えたころ、預かり箱に未処理のフィルムが一本残っていることに気づいた。依頼票は十年前の日付で、連絡先はもう使われていない。
「捨てますか」
「暗室を閉める前に、最後までやる」
二人は薬品の温度を測り、フィルムをリールへ巻いた。暗闇では顔が見えない。秒を数える水城の声に合わせ、松永がタンクを反転させた。現像、停止、定着。昔は何百回もした作業なのに、二人で息を合わせるのは初めてだった。
乾いたネガには、店の前で笑う若い従業員たちが写っていた。今の店長と、髪の長い水城と、見知らぬ人々。店名の看板だけは同じだった。
水城は一枚を焼き、さらにもう一枚焼いた。片方を店のアルバムへ挟み、もう片方を封筒へ入れた。宛名には松永の名字を書いたが、手渡さず暗室の引き出しへ置いた。
「持って帰らないんですか」
「次に来たとき渡す」
次があるとは、どちらも約束していない。暗室は一週間後に閉じる。店そのものも、冬まで持つか分からない。
松永は未払いの給料を受け取り、出口へ向かった。途中で引き返し、床に干していた自分の靴を暗室の棚へ置いたままにした。代わりに店の古いサンダルを履く。
「明日、乾いたら取りに来ます」
水城は返事をせず、二人分のマグカップへ湯を注いだ。暗室の赤い灯りは、閉店時刻を過ぎても消えなかった。