生姜の底の鰯
水原伊吹は、署名した退職届を鞄に入れていた。
母が倒れた。命に別状はないが、右手に麻痺が残り、一人暮らしへ戻れるかは分からない。伊吹は明後日、実家のある秋田へ移る。会社には「家庭の事情」とだけ伝え、明日の朝、退職届を出すつもりだった。
課長へ相談すれば、在宅勤務や休職という選択肢があるかもしれない。けれど、特別扱いを求めるようで言えなかった。チームは繁忙期で、伊吹が抜ければ誰かの残業が増える。それなら、きっぱり辞めるほうが迷惑をかけないと思った。
この店にも当分来られない。客は伊吹一人だった。店主は鰯の生姜煮を小鍋から皿へ移した。
煮汁がとろりと光り、醤油の匂いに生姜の鋭い香りが混じる。鰯の腹から細い湯気が立ち、箸で押すと骨ごと静かに割れた。
「骨までいけます」
「急いで食うなよ」
店主は新しい生姜を刻みながら言った。
伊吹は骨を舌で確かめた。硬さは残っているが、噛めば崩れる。すべてを取り除かなくても食べられる形がある。
鞄から退職届を出し、日付の横へ小さく鉛筆で線を引いた。明日は提出する前に、課長へ三か月の休職と在宅勤務を相談する。断られたら、そのとき退職届を出す。母の状態も、介護の見通しも、隠さず話す。
会社へ残れるかは分からない。母がどこまで回復するかも分からない。実家での生活が始まることは変わらない。ただ、最初から自分を選択肢の外へ置くのはやめる。
伊吹には、遠方に住む姉がいる。姉は子どもが小さいから動けないと言い、伊吹は「俺がやる」と即答した。その一言で安心させたかったが、同時に誰にも相談できなくなった。明日は課長だけでなく姉にも、週末に何ができるかを尋ねる。公平な分担にはならなくても、一人で全部を抱えたあとに恨むよりはいい。母の前で元気な息子を演じ続けるためにも、支える側の支えを先に探す。頼れる制度を調べることも、自分の仕事に含める。
最後の鰯を噛むと、骨はほろりとほどけ、煮汁の甘さの底から生姜の熱がゆっくり喉へ上がった。