発音は余白に

 鷹取菜月が古書喫茶「発音記号」で拾い上げた英和辞典は、片手に収まるほど小さかった。

 頁の端は黒ずみ、単語の上には鉛筆で仮名が振られている。beautifulは「ビューティフル」から始まり、「ビューラフル」「ビューダフォ」に書き直され、最後に丸で囲まれたのは「通じた」だった。

 別の頁には、「聞き返された。二回目で通じた」「笑われたのではなく、聞こえなかっただけ」とある。発音記号を理解したというより、声を出した回数の記録に見えた。

 菜月は翌朝、海外の取引先へオンラインで新商品の説明をする。資料も質疑応答集も彼女が作った。だが英語で話すのは初めてで、今日のリハーサルでは最初の挨拶を二度噛んだ。

 同僚が「僕が説明しようか」と助け舟を出してくれた。悪意はない。菜月は資料を渡す返信を作り、送信せずに店まで来た。任せれば会議は滑らかに進む。自分はチャットで補足すればいい。それでも、自分の企画が、自分の声を通らず相手へ届くことが悔しかった。

 閉店十分前、店主が会計を始めた。辞典の見返しに記された英語の旧店名を読み上げようとして、菜月は途中で詰まった。店主は先を言わず、バーコードのない本を手にしたまま待った。

 菜月はもう一度、今度はゆっくり読んだ。たぶん子音を一つ間違えた。それでも店主は頷く代わりに、読み終わった瞬間にレジのキーを押した。急かさず、訂正もせず、音が最後まで出るのを会計の手順として待っていた。

 レシートの商品欄には、店主がローマ字で辞典名を入力した。包装紙はかけず、辞典の角へ透明なカバーだけをつける。余白の仮名も訂正跡も、外からそのまま見えた。

 菜月は同僚への下書きを消した。

「説明は私が担当します。質疑で詰まったときだけ補足をお願いします」

 続けて会議資料の一枚目へ、自分が言いやすい言葉で挨拶を書き直す。上手に聞こえる文章より、最後まで声にできる文章を選んだ。

 店を出る前、菜月は小さく商品名を読み直した。二度目も完璧ではなかった。

 それでも辞典の余白には、正解ではなく「通じた」と書いてある。その丸だけを親指で押さえ、菜月は明日のマイクを自分の名前で予約した。