白紙の異動願い
「白紙なら、まだ何も決まってない」
海外事業部の平松若菜が、シンガポール赴任の同意書を前に迷っていたとき、橘川征士はそう言った。
期限は今日の午後六時。行きたい。けれど任期は二年だった。毎週金曜に一緒に帰り、休日の話だけはしないまま一年過ごした相手と、何も始まらないうちに離れるには長すぎる。
「辞退するなら、今です」
若菜が言うと、橘川は首を横に振った。
「辞退してほしいとは言わない」
「では、行っても平気なんですね」
「平気ではない。でも、それを理由に若菜さんの仕事を小さくしたくない」
正しい言葉に、若菜の胸は沈んだ。彼はいつも、欲しい言葉ではなく、必要な言葉をくれる。
午後五時四十分。橘川は同意書の隣へ、三枚の紙を置いた。一枚目はパスポート更新の受領票。二枚目は来年度の休暇申請。三枚目は、東京とシンガポールを結ぶ便の候補表だった。
六月、十月、翌年二月。休暇欄には三度とも「私用渡航」とある。
「まだ航空券は取れません。赴任日が決まってないから」
「どうして、そこまで」
「白紙のまま待つのは、今日で終わりにしたい」
橘川は便の候補表を裏返した。白い面に、手書きで〈次に会う日を決め続ける〉とだけ書かれている。その下に、彼の署名。
告白の文章はなかった。代わりに、二年分の距離を埋めるつもりの予定があった。
若菜は赴任同意書の「承諾」に丸をつけ、署名した。次に、橘川の紙の隣へ自分の名前を書く。
「最初の便は、私が予約します」
「赴任する人が?」
「会いに来てもらうだけでは不公平です。夏休みに東京へ戻ります」
橘川が笑った。若菜がペンを置くと、その手を包む。仕事の決定を祝う握手に見えて、指は離れず絡んだ。
「行ってきます、征士さん」
「行ってらっしゃい、若菜」
午後六時、同意書は提出された。二人の関係を止めていた白紙も、同じ時刻に予定で埋まった。
白紙なら、まだ何も決まっていない。
だから二人は、離れることではなく、次に会う日を先に決めた。