百年豆の夜明け

 迷宮都市の食堂《赤角》には、誰も注文しない豆煮込みがあった。

 魔獣肉の値上がりで、安い豆を看板にするしかなかったのに、その豆が煮えない。店主は借金の担保として仕入れさせられ、三日後までに銀貨を返せなければ店を失う。環は宿代を払えず皿洗いをしていたが、硬い豆を見て前世の台所を思い出した。

 硬い殻を持つ百年豆は、一晩煮ても小石のまま。店主は仕入れを押しつけられ、倉庫に十袋抱えていた。

「食べられたら、厨房を任せてやる」

 笹森環へ向けた言葉は、ほとんど追い払いの冗談だった。

 環は豆を水へ浸し、灰汁から作った食用のアルカリ粉をほんの一つまみ加えた。量を増やせば早くなると店主は勧めたが、環は首を振る。多すぎれば苦味と匂いが残る。匙の先に載る分だけを量り、豆の表面に細かな皺が出たところで必ず水を替えた。

 速さを得る代わりに味を捨てるのではない。その加減だけが勝負だった。

「毒を盛る気か?」

 冒険者たちが騒ぐ。環は粉の量を測り、三十分だけ置いてから水を替えた。

 使った知識は一つ。弱いアルカリは豆の皮や細胞を崩れやすくし、煮える時間を縮める。

 鍋へ移し、普通の火で煮る。夕鐘が鳴る前、環は一粒を木匙で押した。皮は裂けず、中だけがほろりと潰れた。

 店主は疑いながら口へ入れる。歯に当たる芯はない。濃い豆の甘みが広がり、煮汁には自然なとろみがついていた。

「何時間だ」

「浸けてから一時間半です」

 従来は薪を一束使っても食べられなかった。今日は三本で済んだ。

 環は香辛料を加えず、塩だけで小鉢を十個並べた。迷宮帰りの冒険者たちが次々に空にする。硬い携帯食で口を切っていた若い剣士は、二杯目を頼みながら『肉がなくても腹にたまる』と笑った。十袋を全部売れば借金を返しても余ると、帳場の娘が震える指で計算する。

 店主は昨日まで豆袋に掛けていた差し押さえ札を、自分の手で引きちぎった。最後の一人は鍋底をパンで拭った。

「明日の朝もあるか?」

 その声に、店主は倉庫の十袋を見た。昨日まで借金の山だった豆が、売り切れ札を出せる料理へ変わっている。

 店主は厨房の鍵を環へ投げた。

「朝だけじゃない。今夜から百年豆煮込みを看板にする。全袋、お前の注文で仕込め」

 入口の古い肉料理札が外され、一番大きな板に環の豆鍋が描かれた。