真鍮の鍵で工具箱を開ける

十一歳の慧は、父の町工場の事務所に立っていた。

机の上には傷だらけの工具箱。叔父の恒明が真鍮の鍵を摘まみ、前の人生と同じように笑う。

「子供は触るな。こんな古い鍵、捨ててこい」

前の慧は従った。

その午後、父が開発した省電力モーターの図面は消えた。叔父は大企業へ持ち込み、自分の特許として登録。父の工場は模倣品だと訴えられ、一年後に倒産した。十七人の職人が職を失い、父は退職金代わりに自宅まで売った。慧は鍵を捨てた日のことを言い出せないまま、大人になった。父は最後まで「証拠は工具箱に入れた」と言ったが、鍵はもうなかった。

真鍮の冷たさだけは、三十年経っても忘れなかった。

慧はゴミ箱へ向かわず、工具箱の小さな鍵穴へ差し込む。

叔父の声が荒くなる。

「親父に怒られるぞ」

「怒られても、捨てるよりいい」

鍵を回すと、二重底が跳ね上がった。

中には日付入りの試作図面、部品の購入伝票、そして古い小型録音機。慧は未来で倒産資料を整理したとき、父が試作の説明を毎晩録音していたと知っている。

ちょうど応接室から、特許を買いに来た企業担当者と父の声が聞こえた。

叔父が工具箱を奪おうとする。慧は録音機の再生ボタンを押した。

『六月十二日。恒明が図面の写しを欲しがったが断った。原本は慧のため、工具箱へ保管する』

壁越しにも聞こえる音量だった。

応接室の扉が開く。

父、銀行員、企業担当者がそろって出てきた。叔父は「子供の悪戯だ」と叫ぶが、図面の端には公証役場の時刻印まである。

企業担当者は叔父が持参していた申請書と見比べた。申請日は、父の録音より半年も後だ。

前の人生では正午、銀行から融資打ち切りの通知が届いた。

事務所のファクスが動き出す。

慧は紙が吐き出されるのを見守った。

《知的財産確認完了》

《融資枠を継続し、量産契約へ移行》

父は工具箱を閉じず、真鍮の鍵を慧の手へ戻した。

「触るな」と叱られると思っていた。

代わりに父は、未来では一度も言えなかった言葉を口にした。

「守ってくれたんだな。これは、お前にも預ける」