社員証を外した顔
十七時五十分。磯谷修也は本社ロビーで、羽田万葉から古い社員証を返された。来客用ゲートが閉じるまで十分。二年前、企画書流出の責任を取って退職した彼女とは、昨夜アプリで再会した。
プロフィール写真の万葉は、いつも首から下げていた赤いストラップを外していた。修也は顔より先に、胸元の小さな火傷の痕で気づいた。徹夜中に二人で倒したコーヒーの跡だ。あの夜、万葉は修也の赤いストラップを借り、自分の青を彼へ掛けた。プレゼンで緊張したら互いの色を見ようというお守りだった。事件の朝、修也の机に青いストラップだけが戻り、彼は赤を持ったまま消えた彼女を裏切り者だと思った。万葉のプロフィール写真では、その赤が鞄の持ち手に結ばれている。修也はそれを新しい会社の色だと勘違いしていた。
「右へしたの、事情を聞きたいから?」
「それもある」
「私は盗ってない」
「部長と一緒に人事へ入るのを見た」
「呼び出されたから」
当時、万葉が説明を求めても、修也は返信しなかった。彼女が自分を巻き込まないため黙って辞めたのだと、信じる勇気がなかった。
「来週、シンガポールへ行く」と万葉は言った。「もうこの会社とも、この町とも終わり」
「メール、送ったって言ってたよな」
「三通。最後は、告白まで書いた」
「一通も来てない」
警備員が二人の会話を聞き、端末を確認した。退職者の外部送信は監査保留になり、添付ファイルに顧客名があると隔離される。古い保留箱に、万葉のメールが残っていた。
開くまでに八分かかった。本文には、流出元が部長の私物端末だと示す記録と、最後の一行がある。
〈あなたの昇進を潰したくなくて黙ります。でも、好きだったことまで黙るのは、これで最後にします〉
万葉のゲートはすでに閉まり、彼女はエレベーターへ乗っていた。修也の社員証には、社内へ残れば守れる肩書がある。追えば、二年前に選ばなかった側を選ぶことになる。
修也は社員証を返却箱へ入れ、閉まりかけた同じエレベーターに乗った。